投稿者:ジョーカー   投稿日:2015年 7月10日(金)23時47分52秒     通報
>先生の為に戦うとは、どう言うことなのだろうか?
また、師匠は何故、そういわれるのだろうか?

共戦様より重要な問いかけがありましたので、私の考えるところを述べたいと思います。

・先生のために戦うとは?
戦いは一体何のためなのか。自分のため、会員のため、広宣流布のため、師匠のため等、あらゆる「何のため」が存在します。もっともポピュラーなのは「自分のため」の戦いであり、それは「功徳を得るため」とも言えましょう。これはもちろん否定されるものではなく、むしろ先生自身も「自分のために戦いなさい」と、指導されます。しかし、信心は奥が深く、それを越えたフィールドが存在するのもまた事実です。

もしも山本伸一の、わが身を投げ打つ闘争がなかったら、戸田先生は一体どうなっていたことでしょうか。師弟不二の魂がなければ、とっくに学会は壊滅していたことでしょう。師弟不二とは「自分のため」よりも、「師匠のため」が優先された一念であり、自分ありきの師匠か、師匠ありきの自分か、これが分かれ目であると思います。広宣流布といっても、では誰が一番広宣流布を進めるために奮闘しているのか。その人(師)を護ることこそが広宣流布の肝心要となる故に「師匠のため」との一念が広宣流布そのものではないか。広宣流布とは、現実には「人」であるということです。

法難の際は、「自分のため」を優先していては勝ち越えることはできず、その結果、54年は師を見殺しにしてしまった。タッチの差ではありますが、「師のため」が優先されていたのなら、違う結果になっていたように思います。山本伸一とは「師のため」を第一とした一念であり、その心が誰にもわからなかったのではないでしょうか。自分のためが第一だと、いざという時に保身を生み、道を踏み外す。それが五老僧の命だったのかもしれません。今回の教義変更も、一体誰のため、何のためだったのだろうか。「師のため」という一念はあったのだろうか。

学会から「師のため」という一念がなくなれば壊滅します。「師のため」なのか、「師にほめられたいため」なのか。後者は自分のためである。これは似て非なるものであります。「師のため」であるならば、勝って当然であり、深淵な世界でしょう。勝って当然の戦いをしてこそ、「先生のために」と公言できるのかもしれません。

・師匠はなぜそういわれるのか?
先生自らが、「先生のために戦いなさい」と言われるのは、それが究極であり、本当のことだからでしょう。ある意味、師弟不二を体感した人間にしか言えない台詞なのかもしれません。もちろん先生にはそれを言うだけの実績も体験も存在します。また、指導は遺言でもありますから、遠慮はかえって無慈悲であると捉えていたのかもしれません。誤解もされる言葉ではありますが、本物の弟子ならば、その真意をわかってくれるという信頼もあったのではないでしょうか。

「先生のために」は、自覚の問題であり、本来は誰かに言われてどうこうの話ではありません。同志間においては、軽々に発言することは良しとは思えません。師だからこそ、言える言葉であると私は考えます。「先生のために」という言葉を利用することも可能であり、幹部が士気を高めるための手段とするようになってはマイナスであり、かえって歪みます。自分で思う分はいいと思いますが、軽々に他人に対してその一念を求めるのは難しいですし、そこまでは介入すべきではないとも思います。師を讃嘆している幹部が、師の心の真意を違えていくことは往々にしてあるものであり、それが違和感となってあらわれます。

師弟不二を体現した人間にしか、師弟不二を呼びかけることはできない。わかったつもりでは、感動・感応を生むことはできない。そういうことなのだと思います。「わかったつもり」からいかに早く脱却するか。それができて一歩目といったところなのかもしれません。