投稿者:ジョーカー   投稿日:2015年 7月 8日(水)09時02分57秒     通報
>また、信仰面でも「悪と戦わない信心」が目立ちます。

7月5日付 聖教新聞一面 池田名誉会長 光の言葉幸福の曲より
「本当の『善人』とは『悪と戦っている人』のことである。仏法は、人間を不幸にする魔との『限りなき闘争』である。悪を厳しく責めるのは、それが『正しい』ことだからである。そして、『正しい』ことは『強い』ことである。強くなければ、正義を貫くことはできない。『正義』は『勇気』である。」

先生の精神は一貫して、「悪と戦うこと」であり、それを今でも訴え続けられています。池田門下であるならば、この指導をどのように捉え、実践していくのかを問わねばなりません。先生の指導を、只の抽象論としてはならないのです。「悪」を漠然とした概念と捉えるのか、それとも具体的なものとして定義していくか。抽象的では現実では何にもならないわけです。

ここでいう悪とは一体何か。「人間を不幸にする魔」と言われていますが、これは、「自分の幸福のためなら、他人が不幸になっても構わない」という「自己中心性」と言い換えてもいいでしょう。悪とは、外にも内にも己心にも存在しており、自身とかけ離れたものではありません。

教義変更における執行部の自己中心的な振る舞いは、学会を誤った方向へ導く危険極まりないものです。そこを指摘しているのが宿坊の掲示板でありますが、その宿坊の掲示板に対し、「組織錯乱・混乱」と捉える人もいます。出発点が違うと、どうしても話は噛み合うことはなく、同じ学会員どうしで対立構造を生んでします。それぞれの正義がぶつかり合い、愚考があふれるわけですが、それが人間の世界ともいえます。混沌の中に光があり、愚考の中に真理もある。善と悪は一体であり、消滅させることはできません。悪があるからこそ善も存在し、悪を善へと「転換」する智慧が大事であると思うのです。

ネルソンマンデラ
「大切なのは何が起こったかということよりも、それをどのように受け止めるかということだ。」

悪をも善知識へと転換し、価値に変えていく。それが人間の英知であり、仏の振る舞いでしょう。拙速な教義変更による毒を、どのように変毒為薬していくか。そのための知恵や方途を示していくのが、宿坊の掲示板の役割といったところではないでしょうか。