投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2015年 1月15日(木)09時59分17秒  

釈尊から後事を託された「地涌の菩薩」が本尊を顕すことを明かした後、大聖人は一つの疑問を設定しました。「疑つて云く、正像二千年の間に地涌千界閻浮提に出現して此の経を流通するや」(二五二頁)
――疑っていう。正像二千年の間に地涌の菩薩が出現して南無妙法蓮華経を流通するのか――というものです。

これに対して「流通しない」と即答します。
ではなぜ弘通しないのかという問いに「言わない」と返します。
再度「どうして」・・・・・「言わない」 さらに「どうして」と重ねて問います。
そしてなぜ言わないのかという理由を語っていきました。

「これを言えば、すべての人々が軽慢を起こし、威音王仏の末法の時のように
正法誹謗の罪で地獄に堕ち、わが弟子の中にも疑って誹謗する。だから言わないに限ると思う」(二五三頁)というものです。
それでも「求めて云く」(同頁)と、なお聞こうとします。
そして、そのような大事な法門を説かなかったら慳貪の罪に堕ちると脅しました。
そこまで言われてやっと、地涌の菩薩が正像に南無妙法蓮華経を弘めない理由を明かすのです。

その理由は、正法一千年は小乗経・大乗経が流布される時代で、民衆の機根も整っていなかった。
像法一千年は、天台・伝教が出現したけれども、
彼等は五義を知っていて「弘める時」と「弘める資格がない」ことも知っていた。

だから迹門を面とし、本門を裏として理論上で一念三千を説いただけで、
迹門の戒壇を建立したにすぎない等々――五義に照らして言及していくのです。
ここで重要なのは「時」を強調していることです。
そして大聖人は、伝教の「闘諍の時」(二五四頁) の釈を引いて、その法を弘める時は「末法」であると結論します。

「此の時、地涌千界出現して、本門の釈尊を脇士と為す。
一閻浮提第一の本尊、此の国に立つ可し」(二五四頁)

――この末法の時、地涌の菩薩が出現して、本門の釈尊を脇士とする。
全世界第一の本尊をこの国(日本)に立てるのである。
インド・中国らも未だかつてないこの本尊は出現されなかった――というものです。

「闘諍の時」の最たるものは戦争だと思います。
戦争は人々の心を引き裂き、人と人の絆を断ち切る最悪の愚行です。
しかも生命に具わる仏界を破壊することは悪魔の所業といえます。

また、正義が隠れた「白法隠没」は、民衆を不幸のどん底に追いやり生命力を奪います。
大聖人が厳しかったのは「根本・本尊」を取り違える当時の僧侶たちに対してです。
人間の生命に善悪が内在している以上、第六天の魔王が発動する時、そのもっとも残酷な戦争が起こることを考えれば、大聖人の末法観が「闘諍の時」「白法隠没の時」と捉え、
悪の根源を示して立正安国の闘争に突き進んだことは非常に重要なことだと思います。