投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2015年 1月15日(木)09時58分30秒  

話を戻します。
寿量品では、仏の永遠性(本果妙)、衆生の永遠性(本因妙)、国土の永遠性(本国土妙)という
三つの次元から妙法の永遠性が明かされます。
いわゆる「三妙合論」ということですが、この寿量品の説法があって
初めて永遠の法である南無妙法蓮華経を指し示すことができるのです。

本文は「今、寿量品を説いた時に現れた本来の娑婆世界は、三災もなく、
常・住・壊・空の四劫も超え出た永遠の浄土である。
仏はもとより過去に滅することもなく未来に生ずることもない永遠の存在である。
仏に導かれる衆生も本質は同じ永遠の存在なのである。
これが己心に具足する三千諸法、三種の世間である(通解)」(二四七頁)というところです。

この寿量品の三妙合論によって虚空会の意義が明らかになりました。
つまり、仏も衆生も国土も永遠の妙法の当体であることを象徴しているのが虚空会なのです。

次に「この本門の肝心である南無妙法蓮華経の五字については、仏は文殊・薬王らの大菩薩たちにさえ付嘱されなかった。まして、それ以外の者たちに付嘱されなかったのはいうまでもない。

ただ無数の地涌の菩薩たちを呼び出して、涌出品第十五から嘱累品第二十二までの八品を説いて、付嘱されたのである(通解)」(同頁)とあります。

釈尊は虚空会の儀式で根源の法である「永遠の妙法(南無妙法蓮華経)」を指し示しました。
それが釈尊滅後の「万人を救う大法」なのです。
この説法をもってすべてを説き尽くした釈尊は、すべてを受け継ぐ本物の弟子(地涌の菩薩)に後事を託します。そしてこのあと大聖人は、本尊の相貌を具体的に述べていきました。

しかし、ここで一つの疑問に突き当たります。
それはこの本尊のことを「末法に来入して始めて、此の仏像・出現せしむ」(二四八頁)と表現しているからです。

大聖人が図顕した末法の本尊は、木像や絵像ではなく「文字漫荼羅」を本尊としているのに、
どうして「此の仏像」と表現したのでしょうか。
またなぜ、木像や絵像ではなく、文字の漫荼羅として本尊を顕したのでしょうか。
「木絵二像開眼之事」などを見れば、絵や彫刻などでは普遍的な法を表現するのは困難だと指摘しています。
つまり木像・絵像は、因果の功徳のうち「果」の表現であり、色心二法のうちの色法に過ぎない、
だから仏の心までは表現しきれないということです。

確かにそう言われると、絵や彫刻などは、それを見た時の受け止め方が人によって違ってきます。

どうしても目に見える表現の美しさや、優雅さに目が奪われて
木像・絵像の表現に象徴された「真理」にまで思いを寄せることが妨げられることもいなめません。
しかし、心は言葉で表現することは出来ます。
大聖人も「言と云うは心の思いを響かして声を顕すを云うなり」(五六三頁)、
「仏は文字に依つて衆生を度し給うなり」(一五三頁)と言っています。

木像や絵像では、南無妙法蓮華経という「因行果徳」をすべて具足した
「根源の法」を表し尽くすことはできないのです。
大聖人は、仏の滅後は文字が仏の働きをなし、民衆を救うのだと述べています。
文字を見ると、誰が書いたのか、どういう意味かと考えます。

「書いた人」「書いた人の心」へと思いが向かいます。
文字は「心へ」「因へ」と導くのに対して、木像・絵像は「果」に執着させる傾向があると言えます。ともあれ、大聖人が「永遠の法」を顕し弘めるために「木像・絵像」ではなく、
文字で表現したことに深い意義を拝することができるのです。