投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2015年 1月15日(木)09時57分42秒  

妙法蓮華経の五字の受持によって観心が成就し、仏の因果の功徳をすべて譲り受ければ、
その人は仏と全く異なることがない生命となっていきます。
つまり師である仏と同じく、弟子である人々が、自身に具わる因果の功徳を自在に享受し、
用いる身になることができると示されたのです。
法の功徳を自在に享受する仏が「自受用身如来」です。

大聖人は、極寒の地・佐渡で法華経の行者が迫害される「因果観」を語っています。
「日蓮も又かくせめらるるも先業なきにあらず。不軽品に云く『其罪畢已』等云云。
不軽菩薩の無量の謗法の者に、罵詈打擲せられしも先業の所感なるべし」(九五八頁)
とありますが、悪を追及していくには、その悪が大きければ大きいほど、
自身の内なる悪との闘争なしには出来ないことだと思います。
悪を追及していけば、当然その反動が返って来ます。

その内なる制止を突き抜けて、悪の追及をやり抜くには、
よほどの強い「志」がなければ実践できるものではないと思います。
大聖人は内なる悪を過去の罪ととらえ、自らの修行を「其罪畢已」と捉えました。

その罪を外なる悪を責めることによって、受ける受難の形で消し去ることによって、
自らが法華経の行者であると証明したのです。
しかし、ここで重要なことは「其罪畢已」を必ずしも弟子たちに要求していないことです。

むしろ大聖人は「其罪畢已」にみられる因果観を乗り越えるとともに、
「彼の因果の功徳を譲り与え」という偉大なる因果観に昇華して、それを弟子たちに与えようとしたのです。
この「釈尊の因行と果徳の二法は、ことごとく妙法蓮華経の五字に具足している。
我らがこの五字を受持すれば、自然に彼の因果の功徳を譲り与えられるのである(通解)」という因果観によって、
初めて本質的な意味での「宿命転換・転重軽受」も可能とする原理が開かれたといえます。
ここに大聖人の「大慈悲」があると確信します。

「受持即観心」を述べられた後、大聖人は観心を成就できる本尊を、
いかにして顕すかについて論じていきました。
そして、末法流通の本尊を選び定めるに当たり「五重三段」が語られ、
寿量品が説かれた時の「虚空会の儀式」を本尊の相貌としたのです。

なぜかというと、南無妙法蓮華経が永遠の法であるといっても、
南無妙法蓮華経を単独で示しただけでは、単なる法華経の題名であるとか、
経典(法華経)に南無(帰命)することであるとしか受け止められない可能性があるからです。

大聖人はこの後、なぜ虚空会の儀式が「本尊の相貌」になるのかを述べていきました。
ちなみに「五重三段」を簡単に説明すると、釈尊の五十年の教法を、勝劣・浅深にして
五重(一代一経三段・法華経一経三段・迹門熟益三段・本門脱益三段・文底下種三段)に立て分け、それぞれを
「序分(教法を説くための準備段階)」
「正宗分(仏の本意)」
「流通分(仏意を広く流布)」の三段に分ける「教判」のことです。