投稿者:まなこ   投稿日:2015年 7月 7日(火)20時04分55秒     通報 編集済
■ 四大声聞への授記

斉藤: 「軌道が定まる」というお話がありましたが、これは「授記」という言葉の元意にも一致しています。

遠藤: 「記」という漢字は元来、“ものごとを立て分け、筋道を立てて表す”という意味です。漢訳の「授記」は、鳩摩羅什が使い始めた訳語で、それ以前は「記別」「授決」などといっていました。記別の「別」も“立て分けて区別する”という意味ですし、授決の「決」は“はっきりと立てわけて取り決める”ことです。

須田: 「授記」のサンスクリット(古代インドの文章語)の原語は「ヴィヤーカラナ」といいます。これには、「区別」「分析」「発展」などの意味があります。仏典では、“疑問に対して明確に答えること”という意味で用いられています。

斉藤: 要するに、授記の「記」というのは、明確に述べることです。明確に述べることによって、成仏への軌道を最後まで間違いなく歩ませるのです。信解とは“向上への志”であることは既に確認しましたが、その志を“生命の奥底に刻む”力が授記にはあるのでしょう。

名誉会長: そう。元来、授記とは、明快な答えを述べ、人々の心の疑いを解決することだね。
リーダーはつねに「明快」でなければならない。あいまいは悪です。人々に不安を与えるからです。「確信を与える」のが「授記」のポイントです。

斉藤: 経典で述べられている「授記」「記別」の大半は、死後どのようになるのかに関するものです。死後や未来にどうなるかは、はっきりとはわからない。だからこそ「明快に語る」必要があったのではないでしょうか。
天台も、授記とは言葉を用いて弁える」ことだと述べています。

名誉会長: 仏が「記を授ける(授記)」のは、その人自身に、成仏できることを“はっきりわきまえさせる”ためです。自覚させ、確信させるのです。

須田: 授記品では、四人の声聞のうち、まず、迦葉に対して授記が行われます。その光景を見て、目連ら三人が自分たちも授記を受けたいと釈尊に願い出ます。釈尊は、須菩提、迦旃延、目連の順で授記を与えていきます。
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授記品から
若し我が深心を知しめして 授記為らるれば 甘露を以って灑ぐに 熱を除いて清涼を得るが如くならん 飢えたる国より来って 忽ちに大王の膳 に遇わんに 心猶疑懼を懐いて 未だ敢えて即便ち食せず 若し復王の教を 得ば 然して後に乃ち敢えて食せんが如く 我等も亦是の如し (法華経 p298)

(世尊よ)もし私たちの深い心をご存じになられて、未来に仏になるという予言をくださるならば、それはちょうど甘露(不老不死の妙薬)がそそがれることによって、(煩悩の)熱が除かれ、清涼(の境地)が得られるようなものでしょう。またそれは、飢えた国からやってきて、急に大王の食膳に招かれても、心はまだ疑いとおそれを懐いているので、すぐには食べようとはせず、王の指示が得られた後に、やっと食べるようになるのと同じようなものでしょう。私たちもまた、そのとおりです。
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遠藤: 目連ら三人が授記を願う場面では“大王膳の譬え”が述べられています(上記の経文を参照)。
すなわち、授記を願う心境は、飢えた国からやって来て「大王の膳」つまり最高級の料理を目の前にしているようなものだ、と。食べたくて仕方がないけれども、王の許しがなければ安心して食べられない。同じように、「声聞も成仏できる」という一仏乗の教えを聞き、納得したけれども、仏から明確な授記を与えられなければ真の安心は得られないというのです。

須田: ちなみに、三人の言葉の中で、釈尊が授記を与えることを「甘露をそそぐ」と讐えています。
「甘露」は“不死”を意味する梵語「アムリタ」の訳で、天界にある“不老不死の妙薬”のことです。授記には、今世だけではなく、未来世にも及ぶ力があることが暗示されています。

名誉会長: 生命の根底の不安を取り除き、絶対の安心を与える。授記には、こういう効果がある。授記という“仏の保証”によって、生命の根底に未来への深い確信が得られたのです。
四大声聞が成仏するときの劫・国・名号を具体的に挙げているのも、この確信を強めるためではないだろうか。

斉藤: はい。「劫」すなわち成仏する時代の名前、「国」すなわち成仏する国土の名前、「名号」すなわち仏としての名前などが具体的に示されます。四大声聞への授記で言えば、次のようになります。

弟子名 劫   国  名号
迦葉  大荘厳 光徳 名相如来
須菩提 有宝  宝生 光明如来
迦施延        閻浮那提金光如来
目連  喜満  意楽 多摩羅跋栴檀香如来

釈尊は、弟子たちに威徳があるゆえに授記すると述べていますが、劫・国・名号には、弟子の長所・個性と何らかの関連があるように感じられます。