投稿者:まなこ   投稿日:2015年 7月 7日(火)12時52分20秒     通報
■ 受持即成仏

遠藤: 「授記」とは、未来に必ず成仏できるという“保証の言葉”を釈尊から弟子に授けることです。授記品では、四大声聞、すなわち迦葉、須菩提、迦旃延、目けん連(目連)の四人の声聞に対して、釈尊から授記されていきます。先の舎利弗への授記に次いで、二回目の授記になります。また、これで、譬喩品(第三章)の「三車火宅の讐え」から始まった四大声聞に対する説法が、一応、しめくくられることになります。

斉藤: 会員の皆さんから「成仏とは具体的にどういう状態なのか」と、よく質問を受けます。法華経の声聞への授記では、成仏は未来のことになります。一方、大聖人は一生成仏だと説かれている。であれば、この一生において、成仏とは、どういう状態をいうのであろうかという疑問です。

名誉会長: 難しい問題であるが、端的に言えば、成仏とは、ひとつの「ゴール」に至ることというよりも、絶えず仏界を強め続けていく「無上道の軌道」に入ることなのです。
法華経の迹門では、まだ歴劫修行の成仏観から出ていません。それで、「遠い未来に成仏する」という授記になる。しかし、その本意は、「仏と同じ道を歩ませること」にあるのです。仏が歩んだ「生命の軌道」「絶対的幸福へのレール」に確かに乗ったよ、と保証するのが授記です。
「色相荘厳の仏に成る」という爾前流門の成仏ではない。仏が歩んだのと同じ「軌道」を歩み続けること自体が成仏なのです。
それでは、仏と同じ「軌道」を行くとは、具体的には、どういうことか。それは法華経を「受持」することです。
法華経の受持とは、法華経に示された仏の心を自分の生命に刻んで、仏の心の通りに生きていくことです。何があっても仏の心から離れないように生きていくことです。だから仏道という「軌道」をはずれない。
神力品(第二十一章)には「我が滅度の後に於いて 応に斯の経を受持すべし 是の人仏道に於いて 決定して疑い有ること無けん」(法華経p584)とあります。すなわち、法華経を「受持」する人が、「仏道」を間違いなく歩めるのです。そして、その人の成仏は疑いないと説かれている。

斉藤: “成仏とはどのような「状態」か”という問いそのものに、まだ爾前迹門の成仏観にとらわれている面がみられます。今の姿とは違う、何らかの“達成された状態”を想定している場合が多い。私たちは、どうしても「仏に成る」という表現から、そういう考え方になりがちです。

名誉会長: そうだね。大聖人は、成仏とは仏に「成る」のではなくて、我が身を仏と「成(ひら)く」、仏の生命を「成く」ことだと仰せです。
戸田先生も「成仏とは、仏になる、仏になろうとすることではない。大聖人様の凡夫即極、諸法実相とのおことばを、すなおに信じたてまつって、この身このままが、永遠の昔より永劫の未来にむかって仏であると覚悟することである」と言われています。
授記品には、目連への授記のときに、「是の身を捨て已って(捨是身已)」(法華経p307)という言葉が出てくる。目連が今の身を捨てて、未来世に多くの諸仏のもとで修行し、最終的には成仏するという趣旨の文です。大聖人は、この文について「是の身を捨てて仏に成るというのは爾前権教の意である。むしろ、そのような執情(とらわれ)を捨てることが、法華経のこの文の本意である」(御書p731 趣意)と言われている。そして、この「捨てる」というのは「ほどこす」と読むのだとされ、この身を捨てるとは「法界に五大を捨(ほどこ)す」ことであると仰せです(御書p731)。法界とは宇宙であり、世界であり、すべての衆生です。五大とは生命です。「法界に五大を捨(ほどこ)す」とは、わが生命を利他のためにほどこす「菩薩の行動」です。菩薩道を歩むこと自体が、成仏なのです。
法華経では、本門で新しい成仏観が示されます。すなわち、寿量品(第十六章)で説かれた久遠実成の仏は、成仏してからも菩薩行をやめていません。“菩薩であることをやめて仏に成った”のではないのです。仏の実践、姿といっても、具体的には菩薩行なのです。成仏しても菩薩道という「軌道」を歩み続ける。それがすなわち「仏道」なのです。

斉藤: 寿量品の最後にも「どうすれば衆生を無上の道に入らせ、速やかに仏身を成就させることができるのか」(法華経p510 趣意)との仏の願いが説かれています。
「無上の道に入らせる」ことが、仏身を成就させる(成仏させる)ことであることがうかがえます。

名誉会長: やはり本門の眼で見ると、成仏とは「ゴール」とか特別な「状態」というよりも、「軌道」だということになるね。あえて、成仏以前と以後との「状態」の違いを言うとすれば、軌道が「定まっている」か、「定まっていない」かの違いと言えるのではないだろうか。
「軌道が定まっている」というのは、自他ともの幸福を願う「心」が定まっているということです。その心でつねに前進しているということです。

須田: 自他ともの幸福、平和を願う心の軌道が、全世界にに広がれば素晴らしいですね。