投稿者:まなこ   投稿日:2015年 7月 7日(火)08時56分6秒     通報
§授記品§
■ 授記 —- 万人を「絶対的幸福の軌道」へ

斉藤: 「新世紀大座談会運動」が始まっています。この座談会も、全国・全世界の座談会で、また語らいで、大いに活用していただけるよう頑張っていきたいと思います。

名誉会長: そうだね。さらに力を入れていこう。
座談会は“大河”です。あらゆる活動は、その大河に注ぎこむ“支流”です。
友好活動も各種会合も、すべて座談会という“大河”に合流して、“民衆の世紀の大海”へと進む。その大河の両岸には、広大な「人間文化の沃野」が開け、豊かな実りを結んでいく —- 。
座談会にこそ学会の「心」がある。戸田先生は、よく語られた。
「初代の会長は、自分が真っ先に行って、一人がくると、その一人の人とじつくり話し合う。二人目の人がくると二人と、三人くると三人と話し合って、実に懇切丁寧に教えてくださった」と。

遠藤: 真っ先に座談会場へ牧口先生は、座談会に全力を注がれたのですね。

名誉会長: そうです。戸田先生は、こうも言われている。
「ただ一人でもいい。その一人の人に全力で法を説き、体験を語り、広布のこと、人生のことを心から話し合っていけばよいのだ。二人でもいい、御本尊の話をして、感激し合って帰る座談会にしてほしい。三人もくれば、“大勢”というべきである」。

須田: “たくさん集める”ことも大事ですが、来た人が「もう一度、来たい」「今度は、友だちと一緒に来たい」と、満足できる座談会をつくり上げていくことですね。

名誉会長: 「号令」ではない、「心」です。「人と人」の語らいなのだから、「人」を大事にしなければ。その結果として、にぎやかで盛大な座談会が定着していくのです。
「伝統の座談会」と呼ぶのも、。長年、続いているからではない。座談会を根本に、一人一人を大事にしてきた、その「心」が、学会の伝統なのです。
学会はつねに、無名にして健気なる「民衆」を、励まし抜いてきたのです。そこに座談会の“魂”がある。世間から見れば、人数も少ない、だれに注目されるのでもない。これほど地味な集いもないでしょう。
しかし座談会には、大宇宙を貫く法を説ききった「哲学」がある。どんなひとをも包みゆかんとする「潤い」がある。どんなに宿命に打ちひしがれていても、もう一度、頑張ってみようと奮い立たせずにはおかない「希望」がある。

遠藤: 湯上がりの爽快さという感じでしょうか(笑い)。

名誉会長: そうなれば素晴らしいね。
仕事をやり遂げ、汗をふきふき、青年が駆けつける。「今日は間に合った着いたとたん、安心してドツと眠気が襲うけど、そうはいかない(笑い)。
「元気出しなさいよ。若いんだから」と、いつも優しく、声の大きい地区担さん。本当は“若いから”眠いのだけれど(爆笑)。
いぶし銀のような味わいある言葉で、信心の醍醐味を語ってくれる多宝会の方々。未来っ子たちは、少しぐらい騒いでも、かわいい(笑い)。
「家内が、あんまり言うもんで」と久しぶりに登場した壮年部のお父さん。「そろそろ本気を出さんとね」と照れながら決意発表すると、大拍手のなか、奥さんが目を真っ赤にして笑ってる。
笑いあり、涙あり、感動あり。決意と感謝の心が響き合い、悩みが勇気に、疲れが充実に変わる。庶民のオアシスハそれが学会の座談会です。
この小さな集いに「人間共和の縮図」がある。「民主主義の実像」がある。「信仰と家庭と地域とを結ぶ広布の脈動」がある。尊い仏子を、大切な友を、幸せにせずにおくものかという「心」がある。その心が「法華経の心」なのです。

遠藤: 池田先生の世界広布の行動も、アメリカでの「ザダンカイ」から始まりました。
小説『新・人間革命』に書いてくださっています。

須田: 私も『新・人間革命』を読んで、こう思いました。釈尊が、かつての修行仲間に初めて仏法を説いた場面(初転法輪)も「座談会」ではなかっただろうかと。
参加者は、釈尊のほかに五人。この小さな小さな集いが、仏教史に燦たる“旭日”となつた。
しかも、そこへ赴くために釈尊は、二百数十キロもの道のりを歩いたとされています。

名誉会長: 仏の説法は「対話」であり、「座談会」に通じると言ってよいでしょう。
そして釈尊の結論である法華経も、壮大な「座談会」です。人生を模索し、真摯に問いかける求道の人々。体験を通し、譬喩を駆使して、誠実に答えていく釈尊。そのやりとりを見て聴いて、ともに「境涯を開く喜び」に包まれる人々。その決意の発光、連動、感応の妙。
この「座談会」で釈尊は、どのようにして衆生の心に、妙法の“旭日”を昇らせていったのか。その大きな焦点となるのが「授記」です。授記品(第六章)について語り合っていこう。