投稿者:ジョーカー   投稿日:2015年 7月 7日(火)08時28分21秒     通報
妙法とは「融通無碍」の世界である。こうあらねばならないという縛りからの解放であり、人間を自由にする教えである。たとえば、御本尊を本とし、衆生を迹と捉える時もあれば、衆生を本、御本尊を迹と捉える時もあります。どちらが片方が正解というわけではなく、どちらも正解、これが妙法です。

仏道修行の観点から見ると、御本尊を本とし、衆生(自分の心)を迹としていかなければ成り立ちません。自分の心を師としては、自分勝手な信心となり、修行にはならないのです。信心根本、御本尊根本とは、自分自身を迹と位置付けて仏道修行していく一念を指します。一方、「何のため」という観点から見ると、「人間のための宗教」ですから、衆生が本で、御本尊が迹となります。

法難の際に、「衆生が本、御本尊が迹」では、退転します。法難とは仏道修行の極みですから、この時には御本尊を本としなければなりません。人間のための宗教という側面のみであったのなら、殉教することはありませんし、退転も正当化されます。牧口先生と戸田先生以外、退転してしまったのは、まさに自身の生活優先、家族優先した結果である。これ、衆生が本、御本尊が迹の考え方であり、この場合は「人間のための宗教」では不可ということになります。

かといって、自身を犠牲にすればいいというものではありません。自他共の幸福が仏法ですので、自身の生活や人生も大事にしなければなりません。何のための信心かといえば、自分の人生を開花させ、幸福になっていくことであり、それが人間のための宗教なわけです。創価学会は人間宗ですので、仏道修行の名のもとに会員を利用したり、犠牲にすることは一切許されません。火事で御本尊と人の命のどちらが優先されるべきか、当然人の命となり、この場合は衆生を本、御本尊を迹と考えます。このようにどちらか一方ではなく、融通無碍なのです。

「其の身は有に非ず無に非ず」からはじまる無量義経の三十四の非ずもまた、仏の融通無碍を表現しており、何かにとらわれた姿、振る舞いではありません。とらわれは無用な争いを生むだけであり、妙法の世界ではありません。こうあらねばならないという縛りからの脱却こそが日蓮仏法である。融通無碍の境地を体得していきたいものです。