投稿者:まなこ   投稿日:2015年 7月 6日(月)12時19分17秒     通報
■ 一切種智の意義 —- 智慧即慈悲

斉藤: 仏は、衆生の違いを知りつつ、平等の一仏乗を説くわけですが、薬草喩品では、こういう智慧をもった仏を「一切知者」と呼んでいます。また、その仏の智慧である「一切種智」を強調しています。

名誉会長: 「一切知者」であるがゆえに、仏はあらゆる法を説くことができ、いかなる衆生をも導けるのです。しかも、ほかならぬ自分と同じ「一切智地」(一切知者の位)、つまり仏の境涯に至らせるように衆生を育てるのです。

遠藤: 「一切を知る」というと、キリスト教の神の「全智」を思い起こしますが、違いをどう説明したらよいのでしょうか。

名誉会長: キリスト教の場合は、創造神の完全な知恵を全智といっているようだ。万物は神によって創造されたものであるから、神は一切を知っているというのです。仏の一切知はそういうものではありません。さまざまな解釈があるが、私は、あくまでも衆生を救おうとする慈悲ゆえに、その衆生のことや説くべき法を知り尽くす智慧が仏の一切知であると思う。いわば「慈悲と一体の智慧」です。
その点から、「ミリンダ王の問い」という仏典に説かれている解釈に心引かれる。それは、仏は知りたいものに「傾注」するゆえに一切を知ることができるというものです。あらかじめ全部を知っているというのではないのです。
しかし、仏は自分自身の生命の実相を知っていますから、衆生の一人一人に「心を傾ければ」、その衆生が何を考え、何に苦しんでいるか、また何を教えれば成仏の道を歩めるかなど、衆生を救うための一切がわかるのです。
慈悲ゆえに衆生に心を傾け注ぐのです。苦しんでいる衆生を救わずにはおくものかという心です。親が我が子を必死に守るように衆生を慈しむ心です。そこに無限の智慧がわき起こつてくる。それが仏の一切知であると思う。

斉藤: 納得できます。「スッタニパータ」という経典では、「究極の理想に通じた人」がなすべきこととして、釈尊がこう説いています。
「一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ。・・・・あたかも、母が己が独り子を命を賭けても護るように、そのように一切の生きとし生けるものどもに対しても、無量の(慈しみの)こころを起すべし。また全世界に対して無量の慈しみの意を起すべし」(『ブツダのことば「スッタニパータ』、中村元訳)

名誉会長: 本当の悟りを得た人は、その悟りに閉じこもらずに、一切の人々の幸福と全世界の安穏を願う無量の慈しみの心を起こすのです。そうでなければ真の悟りではないのです。ゆえに、修行者が低い悟りにとどまったり、誤った悟りに陥らないように、釈尊はこのような言葉を指標として残したのでしょう。
仏の真の悟り、真の智慧は、無量の慈悲と一体なのです。この「智慧即慈悲」「慈悲即智慧」を、法華経では「一切種智」と呼んでいるのではないだろうか。

遠藤: そうしますと、薬草喩品の「我は是れ一切知者、一切見者、知道者、開道者、説道者なり」(法華経p281)との経文も「智慧即慈悲」を示唆していると考えられます。
「一切知者」である仏は、同時に、道を知り、道を開き、道を説く者だとされているのです。

名誉会長: そう。仏法の指導者は、「知道者」「開道者」「説道者」でなければならない。
「身(開道)」「口(説道)」「意(知道)」の三業すべてで広宣流布を切り開いていくのです。

須田: 「一切知者」について、天台は一心に三智を具えた人であると解釈しています。三智とは一切智、道種智、一切種智の三つです。
このうち一切智とは、空諦を知る智慧です。つまり、すべてのものの本性は平等に「空」「無常」であると知る智慧です。これは、二乗の智慧であり、空智ともいいます。
道種智は、仮諦を知る智慧です。あらゆる存在の本性が平等に空であることを踏まえたうえで、仮に成り立っている個々の存在の多様性を知る菩薩の智慧です。菩薩は現実の中で人を救わなければならないので、この智慧が必要です。
そして、一切種智とは、一切智と道種智を兼ね備え、自在に正しく使っていける仏の智慧であり、中道の智慧です。
これら三智が、私たちの生命に円満に具足することを天台は「一心三智」と呼び、修行によって実現すべき境地としました。
この天台の捉え方においても、仏の智慧とは衆生を救う慈悲と一体であることがわかります。

名誉会長: どんなに「自分は悟っている」と言ってみても、振る舞いが無慈悲であれば、ウソなのです。智慧は見えない。その見えない智慧を推し量る目安は行動です。仏の出世の本懐はどこまでも「振る舞い」なのです。

須田: 日顕など、「振る舞い」の「無慈悲」を見れば、全く「智慧がない」ことがあまりにも明らかですね。

名誉会長: 智慧即慈悲の「一切種智」とは、自身の生命の根源を究めた仏の智慧です。若き日に愛読した三木清の『人生論ノート』には「自己を知ることはやがて他人を知ることである」とあった。自分を見つめ、境涯を高めた分だけ、他の人々への理解が深まる。
高き境涯の人とは、他の人々の個性を認め、大切にできる人です。智慧ある人は、他の人を生かそうとするのです。
智慧があるように見えても無慈悲であれば、人を生かすことはできない。それどころか、ともすれば冷酷な邪智になり、人を傷つける。それは本当の智慧ではない。
生命は十界互具であり、一念三千です。本来、「多様」なのです。三千すなわち全宇宙が、一念に具わっているのです。その実相を自分自身の生命に覚知した仏には、いかなる衆生をも、自分の生命のように、また我が子のように大切にしたいという心が自ずと現れるのです。全世界、全宇宙を安穏にしたいという心が、わいてくるのです。これが慈悲であり、慈悲は仏の智慧と一体なのです。
その心を釈尊は薬草喩品でこう説いている。
「いまだ救われていない者は救っていこう。いまだ理解していない者には理解させよう。いまだ安穏でない老は安穏にしていこう」(法華経p281 趣意)「一切の枯れしぼんだ衆生を潤して、みな苦を離れさせ、安穏の楽、世間の楽、そして涅槃の楽を得させていこう」(法華経p287 趣意)
一仏乗の実体は、この智者即慈悲の仏の大境涯そのものとは言えまいか。それを薬草喩品では、大雪と平等の雨で譬えているのです。
多様な草木を等しく潤す雨について同品には「等雨法雨(等しく法雨を雨して)」(法華経p289)とある。
これについて日蓮大聖人は、「ひとしく法の雨をふらす」と読む時は「釈迦如来の平等の慈悲」を指し、「ひとしき法の雨ふりたり」と読む時は「平等大慧の妙法蓮華経」を指していると言われている(御書p828)。