投稿者:まなこ   投稿日:2015年 7月 6日(月)08時19分8秒     通報
名誉会長: 雷声とは、衆生を救おうとする慈悲の「大音声」だね。雲が大空を覆って、雨を降らすのは、まさに、すべての人間を慈しみ守る仏を譬えるのにふさわしいことがわかる。
いずれにしても、文化・歴史・地理といったさまざまな違いを知ることがいかに大切か。例えば、“水の信心”“火の信心”といっても、通じない国もある。日本ではこうだから、というだけでは、世界の人々の納得は得られない。
どうすれば異なった人々に理解してもらえるかに心を砕くのが仏法です。独善になっては仏法の魂はない。
衆生を草木に譬えることにしても、インドでは、雨の降らない時期が長いだけに、草木を育てるのに手がかかるのです。また、その分、非常に草木を大事にする。仏が手をかけて成仏へと導く大切な衆生だからこそ草木に譬えているのでしょう。

遠藤: 竜樹の「大智度論」では、不惜身命(身命を惜しまず)で法を供養することを「草木を断つが如し」と譬えています。こうした表現にも、草木を“命あるもの”“自分の命と同じくらい大切なもの”として尊ぶ心がうかがえます。

須田: そもそも薬草喩品は、なぜ「薬草の喩え」というタイトルなのか。こういう疑問が出てきますね。「三草二木」の「三草」は、確かに「薬草」のことなのですが、経文で、「薬草」という言葉は、秀木、草木、叢林、大小の諸樹、あるいは大樹、小樹などと並べて説かれています。別に“樹木の喩え”でも“草木の喩え”でもよさそうなのですが。

名誉会長: その通りだね。実は、サンスクリット語(古代インド語)の法華経の薬草喩品にあたる章には、鳩摩羅什訳にはない部分がある。この部分は、羅什以外の漢訳にもあるようだ。

斉藤: はい。かなり長いものです。この部分では、「薬草」に、より焦点が当たっています。

名誉会長: そこには「山の王者の雪山には四種の薬草がある」(中村瑞隆著『現代語訳法華経上』)という言葉がある。雪山とは、ヒマラヤです。ネパール王国でヒマラヤを見たが、大雪山は、まさに王者の風格であった。一切に勝利した人間のごとき堂々たる威風があった。まさに人間の最高峰・釈尊の故郷にふさわしいと思った。
サンスクリット語の薬草喩品には、生まれつき目の見えない男を治療するために、一人の医師が、ヒマラヤヘ薬草を探しにいく物語が説かれているのです。

斉藤: ヒマラヤにある四種の薬草とは①一切の色と味の要因を貯えている②一切の病気を治療する③一切の毒を消す④それぞれの病状に応じて安楽を与える、という名前です(中村瑞隆著)。薬草のおかげで、この男は目が見えるようになり、喜ぶのですが、世の中のすべてが、わかったかのように錯覚してしまうんですね。

名誉会長: そう。目が見えないとは、六道の苦悩の闇に沈んでいる状態を譬えている。
治療後は、六道の流転を脱した状態。このなかには、声聞の悟りに満足している者もいる。縁覚の境地に安住する者もいる。しかし物語は、無上の悟り、すなわち仏の境界をこそ目指すべきだと教えている。

須田: すると、この「医師」は、「仏」を譬えているのですね。

名誉会長: そう。寿量品にも仏を「良医」とする譬えがあります。仏は「生命の医師」「人生の名医」なのです。また「薬」という字は、草かんむりに「楽」と書く。生命の病を癒し、安楽を与えるのが薬です。もちろん字の由来は別にあるわけだが。

遠藤: 大事なのは、何ものにも揺るがない、無上の安楽の薬は何かということですね。

名誉会長: そうです。大聖人は「薬とは是好良薬の南無妙法蓮華経なり」(御講聞p824)と仰せです。
また「妙法の大良薬を以て一切衆生の無明の大病を治せん」(御書p720)と述べられている。すべての人を、根本から救い切る秘薬が、南無妙法蓮華経なのです。この一点に「薬草喩品」の肝心要があります。