2015年7月5日 投稿者:まなこ 投稿日:2015年 7月 5日(日)20時47分17秒 通報 名誉会長: 実によく勉強されています。氏の作品に「天龍八部」という小説があるけれども、これは、法華経の提婆達多品(第十二章)の経文がタイトルになっている。この天龍八部とは、天、龍、夜叉等々のことで、序品(第一章ですでに列挙された法華経の聴衆です。 遠藤: 人間以外の八種の衆生ですね。 名誉会長: そう。小説の舞台は、北宋時代の大理国という仏教国です。「天龍八部」という題名は、八種の衆生に、登場人物たちの個性を象徴させているといわれている。 須田: 対談(九五年十一月十六日)の記事を読んで、先生が金庸氏に「ヒロシマ平和祈願の碑」の碑銘を書いてくださるよう提案された場面に感動しました。 名誉会長: 快く引き受けてくださって、うれしかった。氏は、一貫して反核の論陣を張ってこられた「平和のペン」の闘士です。いろいろ考えた末に、碑銘の筆は、金庸氏にこそお願いするのがふさわしいと思ったのです。 その後、氏は、法華経を読みながら、連日、書の練習をされているという。法華経の平和の心を込めて書けるようにと言っておられた。 斉藤: 素晴らしい話です。結局、東洋文明の心を追求していくと、「法華経」に至りますね。 名誉会長: そうだね。法華経という「大宗教文学」のなかでも、三草二木の譬えには独自のおもしろさがあります。それは、“衆生の多様性”を強調していることです。これは法華経の七譬の中では唯一です。また、それによって、同時に“仏の慈悲の平等性”が浮き彫りにされているのです。 仏の慈悲は、完全に平等であり、差別はない。一切の衆生を“我が子”と見て、自分と同じ仏の境涯へと高めようとしている。 それは「衆生に差異がない」からではない。「仏が衆生を差別しない」のです。むしろ仏は、衆生の違いを十分に認めている。衆生の「個性」を尊重し、自分らしさを存分に発揮することを望んでいる。 衆生に違いがあるからといって、偏愛したり、憎んだりしない。個性を愛し、個性を喜び、個性を生かそうとする —- それが仏の慈悲であり智慧です。 須田: 薬草喩品にはこう説かれています。 「我一切を観ること普く皆平等にして彼此愛憎の心有ること無し我貪著無く亦限礙無し恒に一切の為に平等に法を説く一人の為にするが如く衆多の為にも亦然なり」(法華経p288) 仏はつねに、すべてのもののために平等に法を説く。彼と此れとわけ隔てる心や、愛憎の心などもなく、まさに一人のために説くように、多くの人々に説くのだ —- と。 名誉会長: 大事なことは「人間の多様性を認めるところから、仏の説法が出発している」という点です。 状況も違う、個性も違う、機根も違う具体的な一人一人をどうすれば成仏させることができるか。個々の人間という「現実」から一歩も離れずに、成仏への道筋を明かすのが法華経です。 “一人を大切に”こそ、法華経の「人間主義」であり、「ヒューマニズム」なのです。それが「仏の心」です。“一切衆生の成仏”という法華経の根本目的も、“一人を大切に”から出発し、そこを徹底させる以外にないのです。抽象的な「人間愛」や「人類愛」なら簡単です。現実の個々の人間への慈愛は難しい。 ドストエフスキーは「人類全体を愛するようになればなるほど、個々の人間、つまりひとりひとりの個人に対する愛情が薄れてゆく」(『カラマーゾフの兄弟』(上)、原卓也訳)、「抽象的に人類を愛するということは、ほとんど例外なく自分ひとりを愛することになる」(『白痴』下巻、木村浩訳)と言っている。 創価学会は、具体的な「一人」から離れず、その「一人」を絶対に幸福するために戦ってきた。これは人類史に燦然と残る崇高な歴史です。 遠藤: まさに法華経は、他のどこにあるのでもない、「今、ここに」ある、創価学会にあるのですね。 ところで、どうして、そういうかけがえのない衆生を「草木」で讐えているのでしょうか。いま一歩、わかりにくい面があります。 名誉会長: そうだね。仏を「雲」に讐えているのもそうだが、インドの気候や文化を考えないと、わかりにくいかもしれない。 須田: インドの気候は、乾期・熱期・雨期とわけられますが、雨期は約四ヵ月間ですから、逆に八ヵ月間は雨が降らないわけです。 それだけに、インドの人々にとっては、雨は待望の雨というか、文字通り恵みの雨です。そのためか、薬草喩品の「法雨」のように、仏法を雨に讐える例は仏典に多く見られます。 遠藤: インドでは、雨が降ると“天気がよい”と言うそうです。 四年前(九二年)に、池田先生のインド訪問に同行させていただきましたが、先生が到着された日は、あいにくの雨でした。しかし、現地の方々は「インドでは、賓客を迎える時には雨が降るとされています」と言って、大変に喜んでおられた。ちょっとしたカルチャー・ショックでした(笑い)。 斉藤: 日本人は、つい“あいにくの雨”と言ってしまいますね(笑い)。 仏を大雲に響えることは、インドの文化的・宗教的背景からもうなずけます。インドラという神は、仏教以前からインド人にもっとも親しまれ、尊敬されていました。この神は、雨を降らす神であり、また雷神でした。そのイメージをうまく使っていると考えられます。薬草喩品には「慧雲は潤いを含み、電光がきらめき、雷声が遠くとどろいて、衆生を喜ばせた」(法華経 p285、趣意)とあります。 Tweet