投稿者:まなこ   投稿日:2015年 7月 5日(日)12時07分0秒     通報
■ 三草二木の譬え

斉藤: はい。まず、薬草喩品の位置付けについて見ておきたいと思います。
先の信解品(第四章)では、迦葉の四大声聞(迦葉・須菩提・迦旃延・目けん連)が釈尊の説法(譬喩品の三車火宅の譬え)を理解したことを、「長者窮子の譬え」をもって示しました。
薬草喩品では、それを聞いた釈尊が、「すばらしい。すばらしい。迦葉よ。巧みに如来の真実の功徳を説いた」(法華経p279、趣旨)と称え、四大声聞の理解が正しいことを承認します。
その上で、釈尊は「如来の功徳は、あなたたちがいかに説いても、説き尽くすことはできない」(法華経p279、趣旨)と述べ、さらに「三草二木の譬え」を説くのです。
言うなれば、薬草喩品は、弟子が領解した内容を仏が承認するとともに、さらに補って述べるという形をとっています。この説法を天台は「述成」と位置付けています。
そして、これを受けて、次の授記品(第六章)では、四大声聞の一人一人に、未来に必ず成仏するとの「授記」が与えられるわけです。一人一人が、いつ(劫)、どこで(国)、何という名(名号の如来に成るかが具体的に示されています。

遠藤: 「釈尊の説法→四大声聞の領解→釈尊の述成→四大声聞への授記」という順に展開されています。これは、先の方便品(第二章)の説法から始まる舎利弗の場合や、後の化城喩品(第七章)の説法から始まる富楼那等の場合も、同じ手順で授記に至っています。

名誉会長: この「師弟の交流」「師弟の一体」に成仏のカギがある。
授記の意義については後に考察するとして、何のために「述成」があるのかと言えば、法華経の説法を信解した声聞たちが、「成仏に至る菩薩道に間違いなく入った」ことをはっきりさせるためです。

遠藤: 確かに、薬草喩品の末尾には、「汝等が所行は 是れ菩薩の道なり 漸漸に修学して 悉く当に成仏すべし」(法華経p293)とあります。

斉藤: それが、後に一人一人の声聞に授記を与える「前提」になっているのですね。

名誉会長: そう。「間違いなく成仏への道に入った」ことが、法華経の一仏乗を信解した功徳なのです。
その功徳をさらに詳しく説いたのが、薬草喩品の「三草二木の譬え」です。
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薬草喩品から
仏の平等の説は 一味の雨の如し 衆生の性に随って 受くる所不同なること 彼の草木の 禀くる所各異なるが如し 仏此の喩を以って 方便して開示し 種種の言辞をもって 一法を演説すれども 仏の智慧に於いては 海の一滴の如し 我法雨を雨して 世間に充満す 一味の法を 力に随って修行すること 彼の叢林 薬草諸樹の 其の大小に随って 漸く増茂して好しきが如し (法華経p291)

仏の平等の教えは、一つの味の雨のようである。(しかし)衆生の性質にしたがって、(衆生がその教えを)どう受けるかは同一ではない。(それは)かの草木が(雨を)どう受けるか、それぞれ異なっているようなものである。仏はこの譬えを方便として開き示した。
種々の言葉や文章をもって、一つの法を演説するのであるけれども、(それは)仏の智慧においては、海の一滴のようなものである。わたくしは、法の雨をふらして、世界を満たす。その一味の法を、それぞれの力に応じて修行することは、かの草むらや林、薬草や諸々の樹木が、それぞれの大小に応じて、だんだんと茂っていくようなものである。
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須田: それでは譬えのあらましを述べてみたいと思います。
—- 三千大千世界(全宇宙)にある山や川、渓谷や大地に、多くの樹木や薬草が生えているとします。それらは、さまざまな種類があり、それぞれ名前や形も異なっています。
譬えでは、このように多種多様の草木を、一応、上・中・下(大・中・小)の薬草と、大・小の樹木に立てわけています。それで「三草二木」と言います。
そのようなところへ、厚い雲が空いっぱいに広がり、あまねく世界を覆い、雨となって降り注ぎます。そして、多くの樹木や薬草をあまねく潤します。雨は平等に降り注ぎますが、草木は、それぞれの性質にしたがって生長し、異なった花を咲かせ、異なった実が成ります。
同じ大地に生育し、同じ雨に潤されても、多くの草木にはそれぞれ差別がある —- と説れています。

遠藤: 厚い雲は「仏」を譬え、雲が起こって空を覆うのは「仏の出現」を譬えています。また、平等の雨とは「仏の説法」であり、「法雨」とも呼ばれています。種々の草木は「衆生」で、草木が雨を受けるのは「聞法(法を聞くこと)」です。
そして、草木が生長し、花を咲かせ、実を成らせていくのは「修行」や「功徳」を譬えていると言えます。
また、三草のうち「小の薬草」は人界・天界を譬え、「中の薬草」は声聞・縁覚を譬えています。「上の薬草」と、二木に当たる「小樹」と「大樹」は、いずれも成仏を目指す菩薩を譬えていると説かれています。

須田: 「上の薬草」「小樹」「大樹」はともに菩薩を譬えているわけですが、それをどう立てわけるかについては、古くからさまざまな解釈がなされています。例えば天台は、「上の薬草」は蔵教の菩薩、「小樹」は通教の菩薩、「大樹」は別教の菩薩であると解釈しています。

斉藤: 雲から雨が「等しく」降り注ぐということは、如来の説法が「一相一味」であることを意味しているとされます。「一相一味」とは、究極的には、いかなる衆生をも等しく成仏させるという功徳があるということです。つまり「一仏乗」のことです。

名誉会長: しかし、それは仏の側から見た本質であって、衆生の側からは、この功徳はわからない。
草木の性質や大小によって、受け止める雨の量や効用が違うように、仏はただ一仏乗を説いているのに、衆生の受け止め方が違うのです。衆生が受け止める教えがいわゆる「三乗」(声聞乗・縁覚乗・菩薩乗)です。

須田: 結局、三草二木の譬えも、前の二つの譬え(三車火宅と長者窮子)と同様、やはり「開三顕一(三乗を開いて一仏乗を顕す)」を表現しているわけです。
つまり、一つには、仏がなぜ三乗などの教えを説いてきたかを明かしている。それは、仏の教えを受け止める衆生の能力・資質に種々の違いがあったために、それに合わせて種々の教えが説かれたということを示しているわけです。
もう一つには、仏の教えはさまざまであるが、本質は一仏乗であり、雨のように一味(いちみ)平等であるということを明かしています。

名誉会長: 法華経の譬喩の巧みさには、いつも感心させられるね。香港で対談を開始した金庸(きんよう)氏(現代中国文学の巨匠)は、法華経は釈尊と弟子たちの「対話の記録」であり、巧みな譬喩を駆使した「大文学」であると語られていた。

須田: 氏は仏教、なかんずく法華経に傾倒されているようですね。