投稿者:まなこ   投稿日:2015年 7月 3日(金)21時12分30秒     通報
■ 「信解」の意義

須田: さて、このように信解品は、声聞たちが「仏の教えを信じ、領解して(納得して)、心から喜んだ」姿を措いています。
ゆえに「信解品」というわけですが、この「信解」は、梵語では「アディムクティ」です。この言葉は本来、「傾倒」とか「意向」を意味します。「~に対して心が向いていること」です。心が指し示すことですから、「こころざし」と言ってよいと思われます。
また「ムクティ」は、「解脱」を意味する「モークシヤ」と語源的に関連するといわれています。
その意味で、「正法華経」(竺法護訳)で「信楽品」と訳された同品が、「妙法蓮華経」(羅什訳)では「信解品」と訳されたことは、原義をより深く解釈したものだと思います。

名誉会長: 日蓮大聖人は御義口伝で、妙楽の法華文句記を引用し「正法華には信楽品と名く其の義通ずと雖も楽(ぎょう)は解に及ばず今は領解を明かす何を以てか楽と云わんや」(御書p725)とされている。
重要なことは、この「信解」という二文字の中に「信心と智慧」「信仰と解脱(悟り)」という仏法上の根本問題が凝縮されていることです。
ひいては「信仰と理性」「信じることと知ること」という哲学と文明の根源的な課題にも連なってくる。
きわめてデリケートな問題であるし、認知科学、心理学など諸分野の学問とも関連してくる。また仏教でも古来、精緻(せいち)な考察が重ねられています。
一回の語らいで論じつくせるものでないことは当然ですが、避けて通れないテーマであることも確かです。
パスカルが、信仰なき人々に対して「宗教が理性に反するものではないことを示さなければならない」(「パンセ」『世界の名著24』所収 前田陽一・由木康訳)と言った言葉は今も生きている。多くの現代人にとって、「信じること」なかんずく「信仰」は、理性に反する行為か、少なくとも理性を眠らせる側面をもつと考えられている。
確かに、そういう狂信的宗教が存在することも事実ですが、だからといって、検証もせず「すべての宗教が同じだ」というのは飛躍であり、それこそ理性に反する。根拠無き盲信の類と断じてよいでしょう。
高等宗教は本来、理性をないがしろにしていない。人間の理性を抑圧しながら、人類の普遍的な信頼を勝ち取ることは不可能です。
なかんずく「智慧の宗教」といわれる仏教は、きわめて理性的な宗教です。人間を超越した人格神などを信じないゆえに、西洋的な宗教観からは「仏教は宗教と言えるのか」と疑問を呈する人さえいるほどです。

須田: 特に原始仏教では、その傾向が強い気がします。大乗仏教になると「信」が強調されるわけですが —- 。

名誉会長: それはその通りだが、原始仏教の場合も、仏道修行の根底には、釈尊への「信」があり、釈尊の説いた法への「信」があった。その「信」を出発点にして、知的な探究も成立したし、分析的な知性のみならず、直観知など精神の深層までも動員しての「全人格的な思惟」が可能になったのです。

斉藤: 確かに、宗教だけでなく、どんな修行でも、はじめから師匠を疑っていたのでは、修行になりません。
牧口先生は、こう言われています。「生活は、すべて最初は模倣である。他人が行っていることを見よう見まねで、信じて生活をするのである。同様にお華でも、踊りでも、剣道でも、柔道でも、師匠のいうとおり信じて模倣するのであり、その上に立って模倣から創造に進むのである。それが生活法である」と。

遠藤: 生まれたばかりの赤ちやんが、親の言うことも、まったく信じないで(笑い)、ミルクも毒ではないかと疑い(爆笑)、水も飲むのを拒否する(笑い)それでは生きることすらできません。「生きる」ということは、何らかのものを「信じる」ところから出発するわけです。
社会自体が、互いの信頼なくしては成り立ちません。

名誉会長: そう。こういう生活上の「信」は、宗教的な「信」そのものではありませんが、両者は決して断絶しているのではない。連続しています。
オルテガ(スペインの哲学者)は「人は観念を持つ。だが信念の中で生きる」(「観念と信念」『オルテガ著作集 第八巻』所収 桑名一博訳)と言った。人が何かの「観念を持つ」すなわち「考える」場合にも、その考えている人が立っているのは、何らかの「信念」という大地の上なのであり、信念は「生の容器」である。
「われわれがなにかについて考えはじめたときには、信念はすでにわれわれの深部で働いているのである」(同)
「信念はわれわれの生の基盤を、つまり、その上で人間の生が展開される大地を作りあげている(中略)われわれの行為は知的な行為を含めて、すべてわれわれの真正なる信念の体系がいかなるものであるかにかかっている。われわれはそのような信念のうちに『生き、行動し、存在している。』その結果、われわれは、そのような信念について明白な意識を持たず、信念のことを考えないのが普通である。ところがそのような信念は、われわれが明晰な意識を持って行なったり考えたりするあらゆる行為のうちに含まれていて、潜在的に作用している」(同)
彼は、「信念」は「知の下部構造をなす」(同)とも言っています。
こういう議論からも、現代の通念となっている「信じることと知ることの対立」は決して自明のことではないと言えるでしょう。
「信」は人間の生の基本的条件であり、人間は「信ずるか」「信じないか」を選択することはできない。選択できるのは「何を信ずるか」ということだけなのです。
そして、この「何を信じ、何を信ずべきでないか」を体系化したのが宗教であり、その
意味で宗教は万人の人生・日常と不可欠に関わっているのです。

須田: ただ多くの人は、自分がよって立つ大地である「信念」について、余り自覚していないということですね。

斉藤: オルテガ流にいうと、自覚できないほど、どっぷりと「その中で生きている」わけです。そのままでは、自己の信念の正当性について「理性的な吟味」を始める余地がありません。
その意味で、「信じる」ことから自分は縁遠いと思っている人ほど —- そう信じきっている人ほど —- 自分自身の生の基盤について非理性的であると言うことも、できるのではないでしょうか。

名誉会長: 大地という譬喩で言えば、ふだんは意識していない大地の存在を強く意識するのは地震の時です。それと同じように、自分を支えている信念は、それが崩れた時ほど、強く自覚される。
個人で言えば、人生の深刻な壁にぶつかって、それまでの生さ方を見つめ直す時です。
釈尊のもとに来た多くの人々も、そういう苦悩が、新たな「信」の世界を求めさせたと言えるでしょう。
文明で言えば、すべてに行き詰まった結果、文明の根底にあった基本的価値観が問い直される時がある。現代がそういう時代であることは間違いないでしょう。特に「信と解」に即して言えば、近代思想の特徴であった「信と知の分離・対立」という前提自体が問い直されている。
そして新たな「信と知の統合・止揚」が求められているのではないだろうか。