投稿者:まなこ   投稿日:2015年 7月 4日(土)06時50分22秒     通報
遠藤: かつて池田先生が、この点について創価大学で「スコラ哲学と現代文明」と題して講演されたのを思い出します(1973年7月)。中世の“暗黒時代”の“御用哲学”のように見られてきたスコラ哲学に、まったく新しい光を当て、ポスト近代の課題である「信と知の統合」「全人格的な知」への大きな糧となり得ることを示唆されたので、目がさめる思いがしました。

須田: 確かに、理性が他の何物にも依存せず自立的であるという見解は、過去のものになっているようです。例えば科学史の分野でも「パラダイムの転換」などということが言われています。今までは、科学上の知識はどのような時代でも変わることのない普遍的・客観的な知識であるととらえられてきましたが、実はそれも科学者自身がもっている「その時代に支配的な物の見方(パラダイム)」と不可分であるということが言われるようになってきました。

遠藤: その見解はいまや、極めて多くの学者が受け入れるようになっています。つまり、理性の働きの根底にも、例えば科学者自身が自明のものとして信じ、受け入れている物の考え方、価値観が働いており、理性の根底には信があるということが認められつつあります。

斉藤: この点については、現代の哲学者もさまざまな角度から述べています。例えば、現代哲学に大きな影響を与えたオーストリア生まれの哲学者ヴィトゲンシユタインは、人間が知ることの根底には、その人が信じている何らかの「世界像」がある、と主張しています。
つまり、人間の根底には証明不可能の「信」があり、一切の「知」の働きも信から離れて存在するものではないということだと思います。例えば、一切のものを疑ってなにものも信じないという「懐疑主義」を標榜している人がいたとしても、その人は「疑う」こと自体を信じていることになります。

須田: ガーダマーというドイツの哲学者も、人間がどこまでも歴史に制約された存在であるということを強調しています。人間は自分が生まれ、成長した社会から離れて自分を作ることはできない。その社会が前提にしているものを信じて受け入れるところから人間は出発するといえます。

名誉会長: 何らかの信念が、その人の生きる基盤となっている。だから、その人の信念それ自体は最大に尊重されなければならないことはいうまでもない。しかし、その信念も「理性」と「事実」による検証(テスト)をうけなければ、自分の主観の中で終わってしまい、他に対する普遍性をもちません。
法華経で説かれる信が、解と一体になった信、すなわち「信解」であるということは、その信が単なる主観にとどまっていないことを意味しているといえるでしょう。
もちろん、仏の悟った根源の法は「言語道断・心行所滅」で、言葉や理性の働きで把握し尽くせるものではありません。しかし、言葉や理性が及ぶ範囲では、その働きを最大に尊重していくのが仏法の立場です。仏の悟りは理性が及ぶところではないとしても、少なくともその悟りは理性に敵対し、理性的批判を拒絶するものではないのです。
信解の「解」とは、「智慧」のことです。理性そのものではないが、理性と合致し、理性がその一部であるような「智慧」です。極限まで理性的でありながら、同時に全人格的である「智慧」 —- それを「信」によって得るのが「信解」です。

遠藤: 日蓮大聖人も、極限まで理性的であろうとする仏教の王道を行かれています。
例えば、あえて「疑い」を提起することによって、御自身の立場を確認されていったと思われることが多くあります。
例として、立宗宣言をされる前、大聖人は各地の寺院などを回られました。その際、「而るに十宗七宗まで各各・諍論して随はず国に七人・十人の大王ありて万民をだやかならじいかんがせんと疑うところに一の願を立つ我れ八宗十宗に随はじ」(報恩抄p294)と、宗派にわかれて争っている当時の仏教界に対して疑いを持たれたと述べられています。当時の権威に盲従することなく、経典を基準に自ら思索を深められ、御自身の信念を裏付ける確証を追究されたのです。

斉藤: 佐渡流罪の際もそうです。法華経の行者である日蓮大聖人がなぜ難に遭うのかという内外の疑難に対し、開目抄で「此の疑は此の書の肝心・一期(いちご)の大事なれば処処にこれをかく上疑を強くして答をかまうべし」(御書p203)と仰せのように、その疑問を正面から受け止められ、疑問の検討を通して、御自身が末法の御本仏であられるという結論を示されています。
ここでも疑問を拒否せず、それを通してより高いレベルの答えを出されている。大聖人が示された信は、知的な批判を恐れるようなものではなかったことがわかります。

名誉会長: 開目抄には「種種の大難・出来すとも智者に我義やぶられずば用いじとなり、其の外の大難・風の前の塵なるべし」(御書p232)との有名な御文がある。御自身が立てられた教義は、どのような批判にも破れることはないとのご確信の表明だが、大聖人がどれだけ知性を重んじられたかということが拝せられる。
また諸法実相抄に「行学の二道をはげみ候べし、行学たへなば仏法はあるべからず」(御書p1361)と、行と並んで学の努力を強調されている。
知の探求・検証がなければ仏法は無いとまで断じられている。このように理性の働きを最大に尊重していくのが大聖人の仏法なのです。