投稿者:まなこ   投稿日:2015年 7月 3日(金)06時22分21秒     通報
遠藤: 発奮した二乗たちは、感動のままに、自ら理解した法門を譬喩に託して語ります。それが有名な「長者窮子の譬え」です。
ここであらすじを追ってみたいと思います。 —- まだ幼いころ、父を捨てて出て行った人がいた。その人は二十年、三十年、五十年と長きにわたって、他国を放浪して、すでに年を取り、困窮していた —- 。

斉藤: 「長者窮子の譬え」では、父(長者)は釈尊を譬えたものです。息子(窮子)は、二乗の弟子たちのことです。
古来、この譬え自体が、釈尊の一代の教化をまとめて語ったものとして、とらえられてきました。

遠藤: あらすじを続けます。
—- 父親は、子どもが出て行った後、子どもを探し回ったが、ついに見つけることができなかった。
父は、やがて、ある都市に住み着き、非常に裕福になっていた。財宝が蔵にあふれ、使用人は、無数であり、家畜も数えきれない。
しかし、父は.悩んでいた。「私はもはや年老いた。まもなく死ぬだろう。しかし、私にはこれほどの財産があるのに、譲るべき子どもが見つからない。我が子を見つけて譲りたい」と。

斉藤: これは、釈尊が悟りを得て、その悟った法のすべてを譲る人を探していたということです。

遠藤: ある日、息子が父の邸宅の前にやってきた。しかし、息子は、邸宅の壮麗さと垣間見た父の立派な姿に仰天した。
“ここはすごい人のうちだ。こんなところにいると、つかまってしまう。早く逃げなければ”と思って、逃げ出した。
その時、我が子の姿が、父の目に入った。五十年も離れ離れでいたが、父にはかわいい我が子だとわかった。喜んで家来に命じて迎えにいかせたが、息子は「捕らえに来た」と肝を消し、ついにつかまって、意識を失ってしまった。
父は、我が子の心根が低くなっているので、親子の名乗りをしても無理だとわかった。そこで、やむなく一旦「解放した —- 。

斉藤: 釈尊が悟った後、まず悟った法のすべてをそのまま説こうとしたが、人々には受け入れる機根が整っていなかったということを示しています。

遠藤: その後、父は思索をめぐらした。まず、貧相な身なりの二人の使いをやり、「給料も二倍だよ」と誘って、我が子を雇い、便所掃除の仕事をさせた。子どもは一生懸命に働いた。次に、父自身が貧相な身なりをして、子どもに近づいて、話しかけた。そして、親しくなった。そこで父は我が子に言った。
「お前は真面目だから、何でも言ってごらん。私のことを父と思っていいんだよ。私はお前を“息子”と呼ぶから」と言った。
やがて父子の心は互いに理解し信頼し合って、息子は自由に父の屋敷に出入りするようになったが、相変わらず屋敷の外の小屋で生活していた —- 。

斉藤: 釈尊は、衆生の低劣な機根に合わせて、低い教えを説き、次第に高い教えに導いていったということです。屋敷の外にいたというのは、まだ成仏を人ごとだと思う心根だったという意味です。

名誉会長: ここで注目すべきなのは、長者が息子に「本当の親子と思っていいんだよ」と言っていることです。
譬喩品でも、仏と衆生が父子の関係で語られていた。仏は衆生がどのような境涯であっても、つねに我が子として救おうとしているのです。この深い絆が仏法の眼目です。
「親の心子知らず」というが、子どもがどのように反発しようとも、我が子はかわいい。
子どもの幸せを祈らない親はない。
仏は一切衆生の幸せを祈る。一切衆生の幸福を開くために闘う。一切衆生の親なのです。その仏の心を「信じれば」、自分自身の「智慧」が開けてくるのです。それが法華経における「信解」です。
声聞たちは、仏という“父”が、自分たち“放浪の子”を救うために、長年の問、粒々辛苦してくれた大慈悲を知った。感激して、仏の心を信じ、領解した。その感動が「信解」の二字に込められている。

遠藤: やがて、父は病気になりました。死が近いことを悟った。そこで父は“息子”に言った。
「私には多くの財宝があり、蔵に満ちている。その量と、人々にどれだけ与えるべきかを、お前はすべてわかっている。お前は、私の意を体してこの財産を管理していきなさい。なぜなら、私とお前は全く違いがないのだから。心して財産を失わないように」と。“息子”は財産の管理をすべて任されるようになった。
そして、その財産を大切に管理した。しかも、その財産の一分も自分のものとすることはなかった —- 。