投稿者:まなこ   投稿日:2015年 6月27日(土)18時35分53秒     通報
■ 四大声聞が目覚めを語る「長者窮子の譬え」

斉藤: 信解品は、二乗作仏が説かれた歓喜から開幕します。
前に学んだ譬喩品(第三章)で、釈尊は、舎利弗が将来、「大宝厳」という時代に「離垢」という世界で「華光如来」という仏になるだろうと保証を与えました。
これまで諸大乗経では、成仏できないと厳しく糾弾されていた二乗が、将来、必ず成仏できると初めて説かれたのです。
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信解品から
我等今日 仏の音教を聞いて 歓喜踊躍して 未曾有なることを得たり 仏 声聞 当に作仏することを得べしと説きたもう 無上の宝聚 求めざるに 自ら得たり (法華経p263)

我らは今日、仏の教えを聞いて、踊らんばかりに歓喜し、かつてない境地を得た。仏は、声聞が未来に成仏できるであろうと説かれた。我らは、無上の宝の集まりを求めずして、自ずから得ることができたのである。
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遠藤: それを受けて、須菩提ら声聞を代表する四人がその喜びを語ります。
「解空第一」と言われた須菩提、「論議第一」の迦旃延、「頭陀(貪欲を払いのける修行)第一の迦葉、「神通第一」の目(ケン)連は、「世尊が舎利弗に対して、将来、阿耨多羅三藐三菩提(=仏の無上の悟り)を得るだろうと記別(=成仏の保証)を授けられたことを聞いて、味わったことのないような感動を発し、心も歓喜し、身も踊躍した」(法華経 p250 趣意)と。
この「未曾有のことに出会えた喜び」を語ったのが、信解品です。

須田: 彼らは、「僧の首」即ち釈尊の教団のリーダー、最高幹部でした。
しかし「年並びに朽邁せり」、もはや年老いて枯れてしまった、と。また「自ら己に涅槃を得て、堪任する所無しと謂いて」、もはや自分たちは悟りを得ていて、もはや頑張ることはないと思っていた。そして「阿耨多羅三藐三菩提を進求せず」、仏の得た無上の悟りを求めていなかった。

名誉会長: 立場がある。年功がある。経験がある。四大声聞は、そこに安住してしまっていた。
もう自分は長い間、修行をして、年老いた。それなりに悟りを得た。もうこれで十分だ・師匠の釈尊の悟りは確かに素晴らしい。けれども、自分たちには到底およびもつかない。だから、このままでいいんだと。
このような、大幹部の無気力を打ち破ったのが、舎利弗への授記だったのです。
一生涯、熱い求道心を燃やし続ける。それが、法華経の示す人生です。

斉藤: 小説『新・人間革命』でも紹介されていましたが、舎利弗は釈尊より年長という説があります。法華経が説かれたとされる釈尊入滅直前には、八十歳ほどの老齢だったといいます。
また、梵本(サンスクリットの写本をみると、四大声聞も「世尊のそばに永く座っていたので、体中が痛み、関節がうずきます」「年老いて耄碌(もうろく)していた」と訴えています。

須田: 師である釈尊は、そのような人々に対しても「まだまだこれからだ、頑張れ!」(笑い)と激励しているのです。すごいことです。

名誉会長: 「永遠向上」の心を教えているのです。「不退」の決意を促しているのです。
「進まざる」は「退転」です。仏法は、つねに向上です。前へ、前へと進むのです。「永遠成長」です。それでこそ「永遠青春」です。生命は三世永遠なのです。

遠藤: また、二乗たちは、菩薩たちが仏法に基づいて、社会を変革し、人々を導いている努力に対しても、冷めた眼差しで見ていたと語っています。

名誉会長: 二乗は、いわば“心が死んでいた”のです。自らが仏になろうと欲しない。
また、仏になろうと目指して努力している人に対しても、お高く止まって冷淡である。人ごとのように見、バカにしている。だから、諸大乗経典では「焼種」、仏となる種子を焼いてしまった者だと言われていたのです。
しかし、仏はその二乗を根底では見捨てていなかった。“このままでは駄目だ。お前たちは、本当はそんなものではないぞ。もっと素晴らしい境涯を手に入れられるのだぞ”と厳しく叱って、励ましたのです。

斉藤: また、梵本にはこのような記述もあります。
“二乗たちは、自分は仏の無上の悟りを求めていないにもかかわらず、他の菩薩たちに対して『仏の無上の悟りを完成させるように励め』と教え誠めていた”と。

名誉会長: 自身がやってもいないのに、他人にだけ、やれ、やれ、という。とんでもない。慢心です。自分がやらずして、人にやらせようというのは、組織悪の症状でもある。上のほうにそういう卑怯さがあれば、どんな組織、教団も動脈硬化になってしまう。
何より、自分自身が成長しない。生命の停滞、生命の病気です。
法華経に至って、二乗たちは釈尊の叱咤・激励を全身全霊で受け止めた。そこで初めて、人々に正法の声を聞かせる「真の声聞」として蘇生したのです。若返ったのです。みずみずしい向上の人生を再び歩み始めたのです。
自分たちも仏になれるのだ!感極まった言葉が「無上宝聚 不求自得」 —- 無上の宝聚求めざるに自ら得たり —- (法華経p264)です。
無上の宝聚(宝の集まり)とは、法華経の教えとも言えるし、仏界とも言える。また、仏界を具えた自分自身の生命とも言えるでしょう。だれもが、この「生命」という無上の宝を平等にもっている。一番大切なものを「求めずして、おのずから得て」いるのです。それを自覚できるか、否か。それをもっとも深く自覚させるのが法華経なのです。
“無上の宝”は、決して物質的な“蔵の財”ではない。
阪神大震災で被災したある人が、「一番大切なのは、全部、お金では買えないことがわかった。それは命と空気と人間の思いやりだ」と言っていましたが、味わうべき言葉だと思う。

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※次回は7.3より再開いたします!