投稿者:まなこ   投稿日:2015年 6月27日(土)12時10分20秒     通報
§信解品§
■ 信解 —- 「信仰」と「智慧」のダイナミックな関係

斉藤: この座談会のサブテーマは「二十一世紀の宗教を語る」ですが、これに関連して、忘れられない池田先生の語らいがあります。それは二年前(1993年)の三月、ハーバード大学のサリバン博士と会談された時のことです。

須田: 私もよく覚えています。聖教新聞に大きく「二十一世紀の『人間と宗教』を語る」と掲げられていました。

遠藤: サリバン博士は、ハーバード大学の「世界宗教研究センター」の所長でしたね。

名誉会長: そう。その時、語り合ったことが、この「法華経の智慧」の一つの底流にもなっている。

斉藤: 語らい全体が素晴らしかったのですが、なかでも特に印象深かったのは、二十一世紀の宗教はどうあるべきかを論じられたところです。
宗教と宗教は「民衆に応える」という点で「自由競争」をすべきだと、先生は強調されました。そして、その平和的論争の基準ヒして、仏法は三証(文証・理証・現証)を説くこと、宗教にも寿命があり、死せる宗教に固執すべきではないこと、などを論じられています。先生の結論は意外でした。
「ともあれ何が真理かを決める主体は『民衆』です」と。
いえ、意外どころか、実はそこに感動したのです。“そうだったのか。仏法者の民衆観、宗教観とは、こういうものなのか”と。

遠藤: もし私なら、「日蓮大聖人の仏法しかありませんよ」と言いっ放しで終わったかもしれません(笑い)。

斉藤: 確かに、私たちは、ともすれば、そういう飛躍をしがちですね。
私が感動したのは、二十一世紀の宗教はどうあるべきかを決めるのは「民衆自身」であるということです。これは同時に、民衆が考え、民衆か賢くなり、民衆自身が選んだのでなければ、真の民衆宗教とは言えないということでもあります。

須田: 確かにそうですね。もし仮に、ある優秀な為政者がいて、「正しい宗教はこれだ」と考えたとします。それを国民のために国教にし、「正しいのだから、皆、これを信仰しなさい」と命じたとします。極端な例えかもしれませんが、これでは、宗教は民衆に根づかないでしょう。
正しいからといって、何かの力によって一方的に与えられたり、保護されたりしたのでは、「宗教の死」です。民衆の「精神の自由の死」につながってしまう。

名誉会長: そう。仏教にはもともと、権力を使って信仰を押し付けようという発想はない。アソカ大王も自身は熱心な仏教徒であったが、全宗教への寛容に徹しています。
日蓮大聖人は、佐渡流罪から戻られた時、寺を寄進しょうという幕府の申し出を断ったと伝えられている。幕府に保護してもらおうなどという発想は、微塵ももっておられなかったのでしょう。

遠藤: 「権力が主体」ではなく、「民衆が主体」ということですね。今の時代では、なおさらそうあるべきだと思います。

斉藤: その理想に照らして見ると、今の日本は、どうでしょうか。
国民は、賢明になろうとしているでしょうか。自分で考えようとしているでしょうか。宗教に無知な状態のまま停滞し、その無知につけこまれて不安感を煽られ、そのあげくに権力者による宗教の管理・統制の動きにも盲目的になっている。
「法律をもっと厳しくして、悪い宗教を取り締まってください」と言わんばかりの声さえあることは、権力悪への警戒心の薄さと民主主義の未成熱を感じます。

須田: あるジャーナリスト(K・V・ウォルフレン氏)は、日本の権力構造の本音は「民は愚かに保て」ということだと告発しました。国民が理性的にならなければ、民衆を愚かなまま支配したい権力者の“思うツボ”ではないでしょうか。

名誉会長: 学会は民衆の集まりです。民衆が愚弄されないために戦っている。すべての民衆が「強く」「賢明」になるために、平和と文化のネットワークを広げ、教育に力を注いでいます。
民衆が本来持っている強さ、賢さ、明るさ、温かさ。そうした可能性を引き出す原動力になるのが信仰なのです。
愚かになるために信仰するのではない。賢明になるためにこそ信仰はある。賢さとは、人を不幸にするような知識ではなく、自他ともに向上するための智慧です。
今の社会の狂いは、全人格的な「智慧」と「知識」とを混同し、全人格的な「信仰」と「盲信」との見わけがつかないところから起こっていると言える。
「妙と申す事は開と云う事なり」(法華経題目抄p943)と大聖人は仰せです。どこまでも可能性を開き、向上しょうとする特性が、生命にはある。その特性を、最大に発揮させていくのが妙法であり、真の宗教です。そして生命を開き、智慧を開くカギが「信」の一字にある。大聖人は「開とは信心の異名なり」(御書p716)と仰せです。
限りなき生命の「向上」 —- その心を、鳩摩羅什は「信解」と訳しました。法華経の第四章「信解品」のタイトルです。
「信解」とは、やさしく言えば「心から納得する」ということです。だれもが納得できることが大切です。法華経はそういう信仰を説いている。断じて盲信ではないのです。
この信解品を通して、「信仰とは何か」「信ずるとはどういうことか」を語り合いたいと思う。