投稿者:まなこ   投稿日:2015年 6月27日(土)07時31分43秒     通報
名誉会長: 富永仲基や平田篤胤が有名だね。

須田: はい。江戸時代の思想家の富永仲基は、学者として研究した結果、「法華経は終始、仏を賛嘆するばかりで、全く経説としての実がない」と結論し、法華経で用いられている譬喩も自らの教えの優越性しか言っていないと批判しています。
また、国学者の平田篤胤(あつたね)になると、大乗経の中でも法華経をもっとも劣ったものとしています。例えば、「実は同じ大乗といっても、ほかの経よりいっこうに味わうものがなく、ただただ、滅法、“大ばなし”ばかりで、そのわけを説かない。この二十八品はただかさばるだけで、 —- 能書きばかりで、肝心の丸薬がない」と法華経を罵倒しています。

名誉会長: 大聖人も「二十八品は正き事はわずかなり讃むる言こそ多く候へ」(道妙禅門御書p1242)と、一見すると同じ趣旨に見えることを仰せです。しかし、結論は全く違います。
すなわち「法華経の功徳はほむれば弥功徳まさる」(同) —- 仏が賛嘆しているのだから、我々も大いに賛嘆すれば、功徳はいよいよまさるのだ、と。仏と同じ心に立とうということです。この姿勢、つまり信がなければ、仏の心を顕そうとした法華経は永久にわかりません。
それがあれば、そうした批判がどんなに浅薄かがわかるのです。わずかな「正き事」の中に、一切衆生の成仏の種子が厳然とあるのです。

須田: 今日の研究者の間でも、富永仲基らの論難は的外れであることが指摘されています。
中村元博士は「(『法華経』の前半)迹門全体としては、いかなる体系的な抽象的哲学的思索も認められず、ただ仏の諸々の教法が一乗に帰するということだけが、豊富な言辞と多様の譬喩と以って掛り返し説かれているだけである。したがって、その中に何らかの或る特殊な哲学体系を求めるならば何ものも得られないであろう。しかしながら、われわれは、『法華経』が特殊な哲学を述べていないという点に、かえってこの経典の重大な哲学的立場を読み取ることがでさる」(『インド思想の諸問題』)と述べています。

斉藤: さて、法華経の譬喩を通して、「人を励ます言葉」「人を賢くする言葉」の力について語っていただきました。
しかし社会には「人を陥れる言葉」「人を利用する言葉」、そして人間としての人権感覚まで「マヒさせる言葉」が氾濫しています。悲しむべき現実です。

須田: 「信なき言論、煙のごとし」と戸田先生は喝破されましたが、見える煙なら避けることもできます。しかし今、日本は、「ウソの言論」の煙に包まれて、どこにも逃げられない。いや逃げようとすらしません。

名誉会長: 「火の宅」ならぬ「煙の家」だね(笑い)。

須田: もう亡くなられましたが、創価大学の樺俊雄教授(社会学)が、こう警告されていました。
「政界や財界の支配階級が自己の政策を推し進めるために世論を自己の都合のいい方向に押し曲げるために、マス・コミを自己の勢力のうちにだきこもうとしている」
「そういうファシズム的政治体制がはっきりした形をとって現れる前に、これを未然に阻止するのが何よりも大切である。
戦前の経験によっても、体制側はかならず最初は緩やかな形でしか規制措置を出してこない。はじめは緩やかな形ではあるが、しかし後にはテンポを速めて急速に態勢を整えてくるものである。そうなったときに反撃を加えるのには、大へんな努力が必要である。それゆえ、保守反動の勢力が動きはじめた今こそ、これを徹底的にたたくべきである」(『歴史は繰り返すか』)

名誉会長: そう。社会のわずかな変化にも、その底流を鋭く見抜かねばならない。そして「悪の芽」はつみ、「善の芽」は伸ばすことです。どんな現象も、必ず意味があるし、必ず価値へと変えていけるのです。
次元は違うが、ゲーテは『ファウスト』の終わりで、「すべて移ろい行くものは、永遠なるものの比喩」(高橋義孝訳)であると言っています。

斉藤: 私たちも、ともすると、現実生活を離れた理論のなかに仏法の深い真髄があるかのように錯覚しがちですが、足下の現実こそが仏法であるということを、法華経の譬喩は教えてくれていると思います。

名誉会長: 生活の上に現れる信心の実証は、妙法の功カを説明する「譬喩」です。現実生活の実証は、妙法の真理を雄弁に物語っているのです。
四条金吾、池上兄弟など、大聖人の門下が苦難を乗り越えた実証の姿は、同じ問題に直面した私たちにとって大きな激励となっています。
大聖人は、心をあわせて迫害と戦った池上兄弟に対して「未来までの・物語りなに事か・これにすぎ候べき」(兄弟抄p1086)と称賛されている。そのお言葉通り、今、兄弟の物語は世界で語りつがれている。
この原理は、私たちにとっても同じです。私たち一人一人の勝利の体験が、多くの人に勇気と希望を与える。すなわち、その体験は、妙法の力を表す譬喩となっているのです。人々が、その「一人の勝利のドラマ」を、さらに多くの人に語っていくこともできます。
牧口先生は、体験発表を中心とする座談会運動を創られた。難解な「理論」を表にして説くのではなく、わかりやすい「体験」を表として、妙法を人々に教えられた。
個別の体験は普遍の妙法の「譬喩」です。体験中心の座談会は現代の「譬喩品」であり、現代の「七譬」であり、「無量の譬喩」です。
慈悲と智慧の結晶である「譬喩」法華経と同じ心に立って、創価学会は“布教革命”を巻き起こしたのです。
法華経の譬喩の心は、創価学会の六十五年の歴史の中に生きています。私たちは、末法万年にわたって語りつがれるであろう「法華経の広宣流布」の物語を日々、馥郁(ふくいく)と綴っているのです。