投稿者:まなこ   投稿日:2015年 6月26日(金)19時01分35秒     通報
■ 譬喩即法体

須田: 法華経に説かれる譬喩には、もう一つ、大きな特徴があるように思われます。それは釈尊が弟子に法華経の深遠な法理を何とか伝えようとしただけではなく、弟子たちもまた、釈尊の説法を理解した証として譬喩を用いて応えている点です。譬喩で説明するとなれば、教える師匠が弟子へ語るものと、普通は考えます。ところが、法華経の場合は、必ずしもそうした一方通行のみではないわけです。弟子も同じく譬喩を語っています。

斉藤: 例えば、三車火宅の譬えを領解した四大声聞が、信解品で自分たちの理解を長者窮子の譬えで示します。また、五百弟子受記品では、化城喩品の因縁説を理解した声聞たちが、衣裏珠の譬えをもって応えています。

名誉会長: 仏の巧みな譬えを聞いて、「ああ、よくわかった」というだけでは、まだ十分な理解ではない。本当に深い会得は、全人格的な変革を促すのです。
いわば、「わかる」ことは「かわる」ことなのです。
境涯が高まれば智慧が生まれます。だから弟子たちも譬喩を説けたのです。
また、釈尊が譬喩を用いたのは、あくまでも一切衆生のためです。一切衆生の仏道を開くためです。その譬喩の心、譬喩に込められた仏の心がわかったがゆえに、弟子たちも、譬喩をもって応えたのではないだろうか。
「わかった」という喜びが、「伝えずにはおられない」という心を弟子たちにもたらしたのです。

遠藤: 次元は違いますが、「わかった喜び」といえば、アルキメデスの浮力に関するエビソードを思い出します。確か、王冠が純金でできているかどうか、王冠を傷つけずに調べるよう、王から命ぜられた話です。アルキメデスは、公衆浴場の湯ぶねから溢れ出るお湯を見て、雷に打たれたように金の重量の計り方を思いつき、我を忘れて裸のまま飛び出して「ユリィカ(わかったぞ)!、ユリィカ!」と何度も叫んだということです。この「ユリィカ」というギリシャ語はやがて、「発見の喜び」を告げる言葉として、欧米で使われるようになりました。

名誉会長: アルキメデスの歓喜がこの「ユリィカ」に脈打っているゆえに、長く伝えられるだけの力をもったのでしょう。
弟子が語った法華経の譬喩も、“伝えずにおられない”喜びが込められているのです。
おもしろいのは、釈尊が法華経を説くのは、舎利弗が過去世に願って実践していた道を思い出させるためである、とあることです。〈「我今還って、汝をして、本願所行の道を憶念せしめんと欲す」(法華経p199))〉
「わかる」「伝わる」というのは「思い出す」ことです。自分の中に既にあるから思い出せる。法華経で、譬喩とともに因縁を重視するのは、そのためです。寿量品は、久遠以来の究極の因縁をを説いているとも言える。

斉藤: このように言った文学者がいます。
「日常用いているありふれた言葉が、その組み合わせ方や、発せられる時と場合によっ
て、とつぜん凄い力をもった言葉に変貌する。 —- われわれが使っている言葉は氷山の一角だということである。氷山の海面下に沈んでいる部分は何か。それは、その言葉を発した人の心にほかならず、またその心が、同じく言葉の海面下の部分で伝わり合う他人の心にほかならない」(大岡信著『詩・ことば・人間』)と。

名誉会長: 譬喩とは、ある意味で、言葉の組み合わせ方を日常とは違う仕方に変えることであり、伝えたい内容にぴったりの適切な表現を選ぶことでもあるね。
その時、ありふれた、わかりやすい言葉が日常の意味を超えて、言葉の海面下に沈んでいた心と心、人格と人格の全体を結び付ける力を持つのです。それが本当の意味の「わかる」とか「伝わる」ということです。そこに譬喩の力もある。

遠藤: 私自身の体験で恐縮ですが、かつて失意のどん底にあった時、先輩から“大変だったね”と言われた、たった一言に心からの励ましを感じ、胸を揺さぶられる思いがしたことがありました。
今思うと、相手を思う一念に、人は感動し、心が動かされるのですね。

名誉会長: そうです。言葉であって、言葉ではない。言葉の力は、心です。心が根底にあるから、言葉が生きてくる。大聖人も「心と云うは心の思いを響かして声を顕すを云うなり」(御書 p563)と仰せられている。同じことを言っても、言う人の心の深さで、まったく力は違ってくる。
また、伝教大師は「法華経の七喩は即ち法体であり、法体は即ち譬喩である」と言っている。譬喩即法体 —- 法華経の譬喩というのは、仏の心そのものであるということです。
そして、この譬喩即法体の究極が南無妙法蓮華経であると、大聖人は当体義抄で明かされています。

須田: かつて、法華経には法理に関する部分が少なく、仏を賛嘆する言葉や譬喩ばかりが多いと論難する者がいました。