投稿者:まなこ   投稿日:2015年 6月26日(金)12時08分21秒     通報
■ 法華経の譬喩の特色

須田: それにしても、これほど人の心を引きつける法華経の譬喩の力は、いったいどこから来るのでしょうか。特に、「すべての衆生を仏に」と主張する開三顕一については、二十八品のうち八品も費やして展開されています。その中に、法華経の七大譬喩のうちの五つがある。少し、くどい(笑い)と思う人がいるほどの粘り強さで説かれています。そこに、釈尊の並々ならぬ思いの探さを感じるのですが。

名誉会長: そこなのです、法華経の「譬喩の豊かさ」の根源は。譬喩とは何か。天台はこう解釈している。
「仏の大悲はやむことなく、巧みなる智慧は無辺に働く。ゆえに仏は譬喩を説き、樹木を動かして風を教え、扇をかかげて月をわからせる。このようにして、真理を悟らせるのである」(法華文句、大意)と。
大聖人は、この釈を引かれ、「大悲とは母の子を思う慈悲の如し」(御書p721)と仰せです。巧みなる譬喩を生む源泉は慈悲」なのです。
しかも続いて、「彼の為に悪を除く」のが「彼の親」であるとの言葉を挙げられている。たとえ、子に憎まれようとも、子の心に巣くう悪を取り除こうと戦う「厳愛」であると。

斉藤: その仏の心は、譬喩品の随所にちりばめられています。
「是の諸の衆生は皆是れ我が子なり。等しく大乗を与うべし」(法華経p220)「今此の三界は皆是れ我が有なり其の中の衆生は悉く是れ吾が子なり」(法華経p233)等々。

須田: この「今此三界」の文は、仏と衆生の関係を明かした重要な経文ですね。

名誉会長: 七大譬喩はすべて、衆生に対する仏の慈悲を明かしているのです。中でも代表的な三車火宅、長者窮子、良医病子の三つの譬えでは、仏は“子を救う父”として描かれています。また、種々の草木を平等にうるおす慈雨や大雲として三草二木の譬え)、旅人を導くリーダーとして(化城宝処の譬え)、友人を守る保護者として(衣裏珠の譬え)、臣下をたたえる王として(髻中明珠の譬え)も描かれている。
法華経の譬喩は、衆生の機根に応じて説かれた随他意の言葉ではない。「仏の心」を明かし、人々を「仏の心」へと引き入れる「随自意の譬喩」なのです。
大聖人は「法華経は随自意なり一切衆生を仏の心に随へたり」(新池殿御書p1437)と仰せです。衆生の心が「仏の心」と一体になるために説かれたのが、法華経の譬喩です。

斉藤: 法華経の譬喩は、衆生を仏の境涯に高めるカをもっているのですね。

名誉会長: そうです。さきほど、譬喩には“能動的に考えさせるカ”があると言いましたが、牧口先生も同じ発想の教育方法を考案されていた。
郷土科とか実物教育といわれるものです。身近な郷土に実際にあるものを体験させ、その体験と比較しながら、直接には体験できない知識をも得させていく。いわば実際の体験を譬喩として、生徒自身が考えを広げていくのです。だから、生徒の「自由行動」が大切だと言われている。
わかりやすい譬喩を使って教えるということは、自分で考えさせることに通じる。だからこそ、教えられた人の側に変革が起こる。
それに関連することですが、法華経の七譬を「生命の病を治す薬」ととらえた人もいます。四、五世紀ごろにインドで活躍した天親(世親)です。
例えば、第一の「三車火宅の譬え」は「顛倒して諸の功徳を求める増上慢心」という病を治す薬です。顛倒とは、三界の火宅の中で幸せを求めようとすることです。
また第四の「化城宝処の譬え」が治すのは「実は無いものを有ると思いこむ増上慢心」の病です。二乗の小さな悟りが“有る”と思っている声聞に、それは化城(幻の城)に過ぎない、つまり“無い”と教えているからです。五番日の「衣裏珠の譬え」の薬は「実は有るのに無いと思いこむ増上慢心」を治そうとする。衆生が無いと思い込んでいた宝石(仏性)が衣の裏(生命の中)に有ると教えているからです。
このように七譬は、生命の病を治す「良薬」とされている。
とすると釈尊は、衆生の生命を癒し、蘇生させる「名医」と言えます。「名医」そして「厳父」。そこに一貫して輝いているのは、衆生を幸福にせずにおくものかという、燃えるが如き「慈悲」です。

斉藤: 仏が衆生に対して「名医」と「厳父」の両方の役割をもっていることを示しているのが、七譬の第七、寿量品の良医病子の譬喩ですね。

名誉会長: 寿量品の仏は、過去遠遠劫より未来永劫にわたって衆生救済の活動を続ける仏です。永遠の寿命を持ちながら、“衆生の救済のために出現し、救済のために入滅していく”仏です。出現も入滅も衆生救済のためです。つまり、“慈悲の生命”そのものを表している仏なのです。

遠藤: 七譬の最初の三車火宅の譬えでは、仏は「父」として示されました。「今此三界しの文には、父である仏が、子である衆生をどこまでも救う慈悲が示されています。
この「父である仏」が、寿景品では、永遠の慈悲の活動である久遠の仏として示されたわけですね。

名誉会長: そう。百六箇抄には、「今此三界」の文について、「密表寿量品(=密かに寿量品を表す)」(御書p856)と言われています。