投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2015年 1月15日(木)09時54分37秒  

六波羅蜜の第二は「持戒」です。
持戒の戒とは「防非止悪(ぼうひしあく)」の戒とされ、
身口意にわたる悪業を断じ、一切の不善を禁制することをいいます。
本来は仏教を修行する出家者が守るべき規範として定められたものですが、
その集団生活の規律のために定められたところから、
戒といえば生活のあらゆる面にわたって束縛されるという印象が強いです。

しかし、規律であった戒も、時代が変化し、文化の違いや習慣の違い、
また状況の変化とともに、そうした戒は、そのまま実践できないものとなりました。
言い換えれば、戒は人間性にとってプラス面よりも、マイナス面をもつ結果となっていったのです。

戒律を主体とする小乗仏教が、像法や末法という時代を経て、
中国や日本に伝えられてきたとはいえ、もはや時代性に合わず顧みられなくなったのです。
しかし、これはある社会の状況下に作られたものを、違った状況の人々に、
そのまま当てはめることが間違いなのであって、戒そのものの原点に立ち返って言えば、
それぞれの状況のもとに合わせて戒が立てられるべきであると思うのです。

学会に置き換えれば、都会であっても過疎地の地区もあれば、年配者が多い地区もあります。
また、活動家の多い地区もあれば、少ない地区もあります。
さらに、飲食関係に携わる人が多い地域もあれば、農業を営む人が多い地域もあります。

それらの地区の特徴や生活環境を考慮せずに、一律に地区二十枚の民音チケット購入だの、
会合は七時から開始するのが常識だのと決められても、地域や地区によっては戸惑うことも多いと思います。
さらに、人間の心には、善の心もあれば悪の心もあります。
そう考えると、絶対に規則は必要ないとは言い切れません。
そうすると、なぜそうまでして「戒」が必要なのかという問題が出てきます。

大聖人はこのことについて、明解にその指標を示しています。
それは
「善と悪とは無始よりの左右の法なり。権教並びに諸宗の心は、善悪は等覚に限る。
若し爾ば、等覚までは互に失有るべし。

法華宗の心は、一念三千・性悪性善・妙覚の位に猶備われり。
元品の法性は、梵天帝釈等と顕われ、元品の無明は、第六天の魔王と顕われたり」(九九七頁)というものです。

つまり、仏といえども、十界を具足している一念三千の当体です。
だから四悪趣(地獄・餓鬼・畜生・修羅)の悪心も当然、具わっている。
ましてや、私たち凡夫においては当然です。
四悪趣という悪心は、本来、生命の基本的な生存本能と密接に結びついていますから、
もっとも表れやすい働きといえます。

これに対して、善心の代表である「声聞・縁覚・菩薩」などの働きは、
そうした醜い境涯から飛翔しようとするもので、強い引力に逆らわなければ直ぐに引きずられてしまいます。

この悪心に引きずられないようにすることは、絶え間ない用心と努力が必要です。
「防非止悪」の戒を持つことは、この方向性を間違わないでハンドルを操作するようなものです。
一般的に言っても、自分の意思で自らに課した義務も戒と言えるかもしれません。

現代的にいえば、自己規制が戒であり、その意味では重要な人間の条件といえるでしょう。