投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2015年 1月15日(木)09時55分21秒  

六波羅蜜の第三は「忍辱」です。
成仏という最高の理想を目指すからには、当然それを阻止しようとする障害があります。
経文には、仏道修行をする人がいかに大きな苦難を忍び、
障害を乗り越えていかなければならなかったかが、数え切れないほど挙げられています。

その中でも釈尊が九横の大難に耐え忍んだことは有名で、
大聖人も忍辱ということを、釈尊の特質の一つとして強調しています。

大聖人自身、釈尊よりもさらに大きな大難に耐え抜いた真実の「能忍」でした。
もちろんこれは、仏法の実践に関わる問題ですが、広くいえば、
厳しき現実社会を生きていく上で思うにまかせないこと、辛いこと、苦しいことはつきものです。
それを耐えられないで、自ら命を絶つことは悲しむべきものです。
そう考えると、この社会から苦しみをもたらすものは、できるだけ取り除き、
すべての人々が人生を楽しんで生きられるように、互いに力を合わせるべきです。

互いに争い合い、いじめ合うような愚はなくすべきです。
それでも避けることのできない苦難は、人生において常につきまとうと考えたほうがいいのかもしれない。
これに耐え抜くこと、さらに自分の信ずる正義のために、あらゆる苦難に耐え忍ぶこと――
これは人間としての大事な条件です。
忍辱とは、それを教えているのではないでしょうか。

六波羅蜜の第四は「精進」です。
これは、布施・持戒・忍辱、そのあとの禅定・智慧の五つの修行を、
心身ともに力を尽くして修行するということです。

人間の生き方として考えてみれば、人間は誰でも未完成です。
喜怒哀楽に生きる生身の人間である限り、未完成はむしろ当然といえます。
宗教とは、そうした人間の微妙な感情を、ある特定の方向へ圧迫するのではなく、
その根底から生きる勇気と生命力を奮い起こさせていくものだと思います。

しかし一方で、未完成であるからこそ、向上が必要であり、向上があるからこそ人間といえるのです。進歩と向上がない社会や組織は、弱肉強食の畜生界にも似た社会と化してしまう。
ここに常の精進が必要になってくると思うのです。

大聖人も「南無妙法蓮華経は、精進行なり」(七九〇頁)と述べています。