投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2015年 1月15日(木)09時53分43秒  

まず六波羅蜜の第一は「布施」です。
これは大きく分けて、財や物を与える「財施(ざいせ)」と、
法を説き教える「法施(ほうせ)」と、恐怖を取り除き安心を与える「無畏施(むいせ)」の三つがあります。布施といっても財物を与えるだけが布施ではなく、むしろ法を説き教えること、
また恐怖を取り除き安心を与えることのほうが、仏法においては、より比重を占めています。

たとえば、財物によって救えるのは、わずかの期間です。
財物自体、限られているので救える範囲も狭くなります。
飢えた人にパンを与えても、一日の命を継ぐことしかできません。

しかし、なんらかの仕事の技を教えてあげれば、その仕事によって、一生飢えないで生きていけます。これが広い意味の法施です。
しかし、生きていくだけの技術はもっていても、
絶望に陥り、生きる気力すら失っている人々には、その不安や恐怖を取り除き、
安心を与える無畏施(抜苦与楽)が大きな布施となります。

財施はどちらかというと、依存心を増長させ、
個人の自立を奪う結果になりがちなのに対して、法施・無畏施は、自立の心と力をもたらします。

仏法がもっとも重視しているのは、法施であり無畏施です。
私たちに置き換えれば、仏法を人に説いて折伏し、会員に講義し、指導するのは法施であり無畏施です。

御本尊を受持すれば、自然にこのような行動になっていくということです。
貴方はどうですか、このようになっていますか――。
そのなかで、もっとも尊貴で最極の布施の実践は、
寿量品の「一心欲見仏 不自惜身命」(法華経四九〇頁)です。

大聖人も
「寿量品の自我偈に云く『一心に仏を見たてまつらんと欲して自ら身命を惜しまず』云云。
日蓮が己心の仏界を、此の文に依つて顕はすなり。
其の故は、寿量品の事の一念三千の三大秘法を成就せる事、此の経文なり」(八九二頁)と述べています。

つまり、大聖人のいう観心とは「不惜身命の信心」です。
大聖人が観心を成就し、その「魂」を顕した御本尊を受持し、
師弟不二の信心に立って戦っていくところに自身の成仏があるということです。

「日蓮がたましひを、すみにそめながして、かきて候ぞ、信じさせ給へ。
仏の御意は法華経なり。日蓮がたましひは、南無妙法蓮華経にすぎたるはなし」(一一二四頁)とある通りです。

こう考えていくと、修行の第一に「布施」が置かれているのも、深い意味があることなのだと思います。