2015年1月15日 投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2015年 1月15日(木)09時52分42秒 法華経の開経である無量義経には「無量義とは一法より生ず」とあります。 つまり、そうした無量の福徳や智慧を生み出す「ただ一つの法」が実在することを宣言しました。 そして法華経の結経である普賢経は、この「一法」から、 あらゆる仏の福徳と智慧が生じることを言及してその偉大さを称えました。 この法華経が明かしている「一法」の正体、種子そのものが、 法華経の題目・妙法蓮華経であり、南無妙法蓮華経であると大聖人は覚知したのです。 さらに「答えて曰く無量義経に云く『未だ六波羅蜜を修行する事を得ずと雖も六波羅蜜自然に在前す』等云云」(二四六頁) ――無量義経には「いまだ六波羅蜜の修行をしていなくても、 この経を信じ受持する功徳によって六波羅蜜は自然に具わってくる」云々――と、 経文を示して「受持即観心」の法門を明かしていきました。 受持即観心を簡潔に説明すると、大聖人が覚知した南無妙法蓮華経を受持し、 歓喜と求道心と感謝の一念をもって自行化他の実践に励むならば、 菩薩の修行の要諦とされる六波羅蜜の一々を修行せずとも、 我が生命に仏の一切の功徳や無量の智慧に満ちあふれた仏界(成仏)が涌現するということです。 これが「受持即観心」の法門です。 大聖人が「受持即観心」を説くにあたり、その依文としたのは 「是の経を聞くことを得て、歓喜し信楽し稀有の心を生じ、受持し読誦し書写し解説し説の如く修行し、菩提心を発し、諸の善根を起し、大悲の意を興して、一切の苦悩の衆生を度せんと欲せば、 未だ六波羅蜜を修行することを得ずと雖も、六波羅蜜自然に在前し、即ち是の身に於いて無生法忍を得、生死、煩悩一時に断壊して、菩薩の第七の地に昇らん」(法華経五三頁)というところです。 しかし、よく考えてみれば「六波羅蜜」は、《布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧》の六種類の修行をいうのですが、それを一つ一つ修行しなくても「本尊を受持」することによって仏界が涌現するとは、どういうことなのでしょうか。 そこで大聖人が生涯を通じて所持し、さまざまな注記を書き込まれた、 いわゆる「注 法華経」を見てみると、先ほど挙げた文の横に「第七封賞不思議力・標」と書き込まれていました。 これは十の功徳の第七番目ということですが「標」という字は「テーマ」という意味です。 ということは、この「六波羅蜜」が何を表しているのかを、具体的に解明することによって 「受持」の本質がより鮮明に見えてくると思えます。 この六波羅蜜をあえて現代的に表現するとすれば、それは「人間の条件を表したもの」と解釈できるのではないかと考えます。 「人間の条件」という問題は、古来、東西を問わず多くの思想家や哲学者が追及してきたテーマでもあります。 彼らはこの問題に対して、その答えを模索してきました。 大乗仏教にも、六波羅蜜だけを徹底的に洞察した「大乗理趣六波羅蜜多経」という経典があるくらいです。六波羅蜜はある意味で、そうした疑問への回答書でもあると思うのです。 私たち会員に即していえば、自己の生命変革を目指す「人間革命」の実証は、 人間がどのように変化していくかということを「六波羅蜜」は示しているという意味です。 ではなぜ、そう言えるのかを六波羅蜜を通して見ていきたいと思います。 Tweet