2015年1月15日 投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2015年 1月15日(木)09時51分41秒 次に「設い諸経の中に、処処に六道並びに四聖を載すと雖も、 法華経並びに天台大師所述の摩訶止観等の明鏡を見ざれば、 自具の十界百界千如・一念三千を知らざるなり」(二四〇頁) ――たとえ爾前経の諸経の中にも六道や四聖を説いているといっても、 法華経や天台が述べた摩訶止観という文証(鏡)に向かわなければ、 自身の生命に具わっている十界・百界千如・一念三千を知ることができないのである――とあります。 自分の生命に十界が具わっているといっても、 地獄界から天界までの六道の境涯は、社会に生きる人間である以上、 当たり前に見えるし理解できるものです。 しかし、四聖(声聞・縁覚・菩薩・仏)のなかでも最も現れがたいのが「仏界」です。 大聖人も「仏界計り現じ難し」(二四一頁)と言っています。 理屈では、生命のなかに一念三千・十界互具が具わっていると理解していても、 心の底から納得し、実感し、確認することは難しいのです。 大聖人も本文で、何回も「難信難解(信じがたく理解しがたい)」と述べています。 すべての人々の生命には「仏界が元来、具わっている」というのが、 釈尊の結論であり、天台の結論であり、大聖人の結論です。 しかし、それがなかなか信じられない。 いったんは信じても、何かあると不信に陥り、自分を責め、他人を攻撃してしまう。 そこで大聖人は「観心」の実践(修行)には「明鏡」が必要だと訴えるのです。 その明鏡が、釈尊の「法華経」であり、天台の「摩訶止観」であり、大聖人の境涯(魂)を顕した「本尊」です。 法華経や摩訶止観は、自分の十界にある仏界を見、それを自身の生活に現すための鏡です。 正法時代につくられた「法華経」も、像法時代につくられた「摩訶止観」も、 仏教流布の状況、文化・伝統・国民性という五義を踏まえてつくられた「明鏡」です。 それぞれがその時代の人々の「己心の本尊」を見るためには意味があったのです。 大聖人は、それらを踏まえて、末法の人々のために、 その真髄を一幅の漫荼羅に図顕し「明鏡」として残されます。 その明鏡を根本として、三つの観点から末法の修行法を確立しました。 それが大聖人の出世の本懐である「三大秘法」です。 大聖人は「観心」の意義を述べた後、一つの疑難を設定しています。 「問うて曰く、上の大難、未だ其の会通を聞かず如何」(二四六頁) ――問う、先に人界の生命に尊極の仏界が具わるということに対して、 信じがたい旨を述べ論難したのに、いまだその答えを聞いていない――というものです。 その論難とは 「仏界の中に九界があり、九界の中に仏界があるという『十界互具』の原理は理解できる。 しかし、仏の持っている『功徳・力・智慧・威光』は、あまりにも荘厳であり広大である。 そのような素晴らしい仏の生命が、普通の人間である凡夫の生命に具わるなどとは、とうてい信じられない」というものです。 これに対して、大聖人は経文(無量義経・普賢経)を引きながら、 確かに仏の持っている福徳は無量であり、智慧は深遠、力は広大であるけれども、 それらを生み出す「種子」があるのだと語りました。 法華経以前の爾前経では、仏の「功徳・力・智慧・威光」の一つ一つについて、 それを生み出す「因」の修行を説き、それを一つ一つ実践することによって、 仏と等しい無量の福徳や智慧を具えさせようというものです。 それゆえに、その実践は長い時間を必要とする歴劫修行にならざるを得なかったのです。 しかし、その「根源の種子」に目を向けるように促しているのが法華経です。 Tweet