投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2015年 1月14日(水)10時30分58秒  

では、一度整理します。
天台のいう十如是は、内観を通じて一念三千を体得することを志向したのに対して、

大聖人のいう十如是は、弘教の方軌(規則性)として「教・機・時・国・教法流布の先後」の五義を導き出したばかりでなく、より重要なことは、この社会に開かれた実践を通じて一念三千を体得していくことでした。

五義を知った「法華経の行者」とは、まさに一念三千の体現者以外の何者でもありません。
「此の五義を知つて仏法を弘めば、日本国の国師と成る可きか」(四四〇頁)とありますが、
五義を知り理解していくことが広宣流布のリーダーの必須条件ともいえる。
また逆に、五義を知る人こそが本当の仏法指導者なのだと思います。

大聖人は「観心本尊抄」で、一念三千の出処を考察した後、続いて「観心」について考察していきます。次は、それを見ていきましょう。

では本文です。
「観心とは、我が己心を観じて十法界を見る。是を観心と云うなり」(二四〇頁)
――観心というのは、自分自身の心を観察して、十界を見ることである。これを観心というのである――とあります。

自分自身の生命に、地獄から仏までの十界の境涯のすべてが、本来的に具わっていることを観察する。それが「観心」の実践であり修行であるということですが、
これは釈尊以来「天台・伝教・日蓮大聖人」と一貫した仏法者の論理です。

この論理構造を天台は「止観」と表現しました。
経文に照らした行動とは、まさに止観の「止」であり、それから導き出される観心釈とは、止観の「観」です。

つまり「止」とは仏説による修行であり、「観」とは修行の実践を通して見えてくるものです。

天台思想の究極は「摩訶止観」ですが、その止観は初期仏典の「阿含経」に示された修行法の「止観」を重視したものです。このことからも「止観」は釈尊以来の伝統であることが分かります。

また「観心釈」とは、経文を表面の字義に即して解釈するのではなく、
その経文の本意を修行や実践を通して、己心に写し出して解釈していくことをいいます。

たとえば、学会の幹部はよく「信心で受け止めろ」という指導をします。
厳密に言うと、これは「観心で受け止めろ」という意味なのですが、
最近の学会幹部は「壮・婦・男・女」問わず、総県レベルの幹部でも体験を持っていない人が少なくありません。

自分自身の何らかの目標を達成した体験があったとしても、
厳しく言えば、それは努力であって観心の修行ではありません。
全部自分自身のための目標です。

観心の修行とは、仏説による修行の体験であり、その修行の実践を通して見えてきた信心の歓喜と確信だと思うのです。
このような体験を経験していない会員に「信心で受け止めろ」と訴えても、そこに共感や納得が生まれるでしょうか。

また逆に、このような体験を経験していない幹部が、会員に対して真実の信心指導ができるのでしょうか。
観心釈とは、決して飛躍したものではなくて、ありのままの法華経身読の喜びを語る――
それが強がりではなく本物であるなら、その喜びをもたらした者への感謝の念が起こるのは自然のことです。

このような「法悦」にも似た感情は、実践者でなければ実感できないのではないでしょうか。

・・・・明日につづく。