投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2015年 1月14日(水)10時29分52秒  

大聖人は
「行者仏法を弘むる用心を明さば、夫れ仏法をひろめんと・をもはんものは必ず五義を存して正法をひろむべし。五義とは、一には教、二には機、三には時、四には国、五には仏法流布の前後なり」(四五三頁)――と、仏法を弘める法華経の行者の視点として「五義」を示しました。

そこで、今度は「五義」と「十如是」の関係を簡単に説明します。
まず「十如是」については、法華経方便品に「所謂諸法、如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等」(法華経一〇八頁)とあり、十如是の名目をすべて挙げています。

この十如是を解釈して天台は『法華玄義』に「次に十如是の法を解す。初に通解し、後に別解す。
通じて解せば、相は以て外に拠る、覧て而も別べし、名づけて相と為す。
性は以て内に拠る、自分改めず、名づけて性と為す。主質を名づけて体と為す。功能を力と為し。構造を作と為す。習因を因と為し、助因を縁と為し、習果を果と為し、報果を報と為す。
初相を本と為し、後報を末と為し、帰趣する所の処を究竟と為す云々」(大正三三巻六九四頁)と通説しました。

要するに、天台はこの十如是を法華経の根本原理とし、十如是をもとに「十界論・三世間」を活用して一念三千論を形成し「摩訶止観」で表明したということです。

天台は、この十如是をもって己を内観していく一心三観・観念観法という座禅をもとにした修行法を打ち立てました。
これに対して大聖人は、天台の理論を踏まえつつ、独自の捉え方で展開します。

それは、内面に向かう発想ではなく、外に向かっていく発想です。
つまり、天台の観念観法に対して、大聖人は如説修行という世間に行じていく修行法を立てたのです。

だから十如是の捉え方も、天台とはおのずと違ってくるわけです。
十如是は、転変しゆく森羅万象を十の局面に分けて捉えたもので、
生命に対するトータル的な認識と言えます。

大聖人はこの十如是を、諸現象を認識する視点として活用したのです。

ということは「弘教」を十如是をもって捉えることも可能になってきます。
十如是から「五義」を導き出し、弘教の用心にした独自の視点は、天台の「理」と、大聖人の「事」の決定的な違いだと思います。

それは「座禅して瞑想する」観念の仏法に対して
「自行化他の題目」を実践する仏法の違いともいえます。

日蓮大聖人の仏法は「行動する」活の法門なのです。