投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2015年 1月14日(水)10時29分2秒  

話を「兄弟抄」にもどします。
天台の「摩訶止観」で説かれる三障四魔は、
あくまでも内観修行の中で現れる無意識層の世界で展開される障害です。
決して外部から修行を邪魔されるものではないのです。

これに対して大聖人は、法を弘めることによって、
外部から「反対・抑圧・弾圧」をする存在として、三障四魔を捉えました。
ということは、
「此の釈は日蓮が身に当るのみならず門家の明鏡なり謹んで習い伝えて未来の資糧とせよ」の「此の釈」は、天台流の解釈ではなく「一重立ち入った」大聖人の立場で解釈しないと意味が通じないことになります。

結論的に言えば、天台の一念三千は内観修行を通して獲得した理論的な帰結であっても、
広く民衆が実践する法としては、具体的な姿で指し示すことが出来なかったのです。
だから、大聖人の仏法の立場からは、天台の一念三千は「理の一念三千」と呼ばれ、
実践論として三大秘法の確立を示した大聖人の一念三千を「事の一念三千」として区別できるのです。

「一念三千の観法に二つあり。一には理、二には事なり。
天台・伝教等の御時には理なり。今は事なり」(九九八頁)とある通りです。
では、この天台の一念三千の発想はどこから出てきたものなのでしょうか。

大聖人はそれを「一念三千の出処は略開三の十如実相」(一二七四頁)と言っています。
つまり方便品の「諸法実相」からだというのです。
一念三千が十如実相に基づいている以上、十如実相が大聖人の「法を弘める」実践の中で、
どのように読み込まれているのかを見ていく必要があります。

大聖人と天台の違いを明確にするには、
どうしてもこの問題に触れなければわからないと思うのです。

また、なぜそこにこだわるかというと、
鎌倉時代の五老僧たちは、師を御本仏とは捉えられず、大聖人の立てた法門も理解できずに、
師匠亡き後「師匠は天台沙門である」などと言い出す弟子が出てきたからです。

実際に、大聖人も観心本尊抄の中で
「墓(はか)ないかな、天台の末学等、華厳・真言の元祖の盗人に
一念三千の重宝を盗み取られて、還つて彼等が門家と成りぬ」(二三九頁)

――情けないことに、天台の末学の弟子が華厳宗や真言宗の元祖に
一念三千の重宝を盗み取られて、かえって彼らごとき盗人の弟子となってしまった――と嘆いています。

つまり師匠が苦労してつかんだ到達点を、
弟子が不勉強のために、師匠の法門を研鑽することもせず、理解する努力も怠り、
簡単にその重宝を盗まれて邪宗の元祖を飾るための道具にされてしまった。
天台の弟子はそのことすら理解できずに、彼等の弟子に成り下がってしまったということです。

それは、五老僧においても同じです。
五老僧は大聖人の真実の法門を理解していなかったばかりか、師匠を教訓する弟子もいたのです。
これは歴史が厳然と証明しています。

創価学会も例外ではありません。
師匠に甘え、師匠の威光を利用し、師匠の思想を勉強しない末弟は、
厳しく言えば、必ず近い将来、天台の末学者や五老僧になっていくでしょう。
そうならないためにも教学の研鑽は仏道修行の重要な必須条件なのです。

話をもどします。
十如実相が大聖人の「法を弘める」実践の中で、
どのように読み込まれているかという疑問に対して、大聖人は実にみごとに答えています。

それが「教・機・時・国・教法流布の先後」の五義です。
ちなみに、学会教学でもこの「五義」を「宗教の五綱」として教えていますが、
この「五綱」という呼称は、大聖人の法門にはなく、
近代になってからのもので、明治初年の日蓮宗「日輝」の造語です。
(「充洽園全集」第三編(弘経要義二頁)大東出版社刊)

だから私は「五綱」と言わず、大聖人に従い「五義」と言っています。