投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2015年 1月14日(水)10時27分36秒  

大聖人は、観心本尊抄の中で「天台大師の到達点」を詳細に語っています。
それは「摩訶止観」第五の巻の正観章で初めて明かされる「一念三千」です。
大聖人の本尊は、この「一念三千」を本尊として質的に捉えなおしたものです。
また釈尊の到達点は「法華経」ですが、その究極を大聖人は「南無妙法蓮華経」であると認識したのです。観心本尊抄に「本門の肝心、南無妙法蓮華経の五字」(二四七頁)とあります。

もう少し詳しくいうと、大聖人と天台の法華経へのアプローチの仕方は、ある意味で正反対であると思います。その端的な例が、三障四魔の捉え方に現れています。
三障四魔に触れた大聖人の御書はたくさんありますが、なかでも先ほどの「兄弟抄」には次のようにあります。

「其の上、摩訶止観の第五の巻の一念三千は今一重立ち入たる法門ぞかし。
此の法門を申すには必ず魔出来すべし魔競はずは正法と知るべからず、

第五の巻に云く
『行解既に勤めぬれば三障四魔紛然として競い起る。乃至、随う可らず・畏る可らず。
之に随えば、将に人をして悪道に向わしむ之を畏れば、正法を修することを妨ぐ』等云云、
此の釈は、日蓮が身に当るのみならず門家の明鏡なり謹んで習い伝えて未来の資糧とせよ」(一〇八七頁)というものです。

ここは非常に重要なところです。
まず「摩訶止観の第五の巻の一念三千は今一重立ち入たる法門ぞかし」という一文ですが、
大聖人はどこからどこへ立ち入ったのでしょうか。

天台の説いた一念三千は「観心本尊抄」で詳細に言及していますが、
三大部のうち「法華文句」「法華玄義」では説かれず「摩訶止観」十巻の半ば、第五の巻でやっと明言したのです。
ということは、一念三千が天台思想の究極に位置する法門だということでしょう。
しかも天台は、そこからさらなる一念三千の展開や、活用も示すことはしませんでした。

言ってみれば、到達点として示したにすぎません。
しかし、この一念三千は、国土世間を取り込んでいることからもわかるように、広く社会へ開く契機を含んでいます。

もちろん天台は、それを社会に開くことはありませんでした。
それを社会に開いたのは、日蓮大聖人です。

つまり「一重立ち入った」のは、天台の地平から大聖人の領域へ一歩立ち入ったということではないでしょうか。

そう考えると、大聖人と天台の違いは明確になります。
天台の修行体系は、座禅を土台としていることからもわかるように、観念観法という内観修行です。
外界に起こることも、仏の説く法門も、すべて己心のなかに展開される世界として捉えています。
このことは、天台自らが「法華玄義」巻二上の三法妙を釈する中で告白しています。

そこで述べていることは、衆生法妙(外界に起こること)、仏法妙(仏の説く法門)も、己心なかに展開される世界(心法妙)も、
心・仏・衆生三無差別として、もっとも取り組みやすい心法妙の立場からアプローチするというものです。

それに対して、大聖人のアプローチの仕方は、「斯人行世間の五の文字は、上行菩薩・末法の始の五百年に出現して
南無妙法蓮華経の五字の光明をさしいだして、無明煩悩の闇をてらすべしと云う事なり。
日蓮は此の上行菩薩の御使として、日本国の一切衆生に法華経をうけたもてと勧めしは是なり」(九〇三頁)というものです。

つまり神力品の「斯人行世間(斯の人世間に行じて)」とあるように、
民衆の中に飛び込んで忍難弘通の生涯を送ることによって「法華経」を身で読もうとするものです。

これは非常にわかりやすい取り組みといえます。