投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2015年 1月14日(水)10時26分40秒  

この送状の終りに、この本抄を一見した人は、
仏法の真髄に触れたのだから誤りなく信心を全うし、
必ず成仏を遂げていきなさいと励まされています。
「三仏の顔貌を拝見」するとは、釈尊・多宝・諸仏を三仏といいますが、
大聖人の立場でいえば、この三仏は「法・報・応」の三身を表し、無作三身如来のことをいいます。

そして、顔貌を拝見するとは、わが身が無作三身の当体であると悟り、
わが身にこの本尊があると覚知していきなさい、ということなのだと思います。

では、このことを踏まえて、観心本尊抄の論理構造を見ていきましょう。
観心本尊抄の冒頭は、いきなり天台の「摩訶止観」の引用から入り、唐突な感じがします。
開目抄の「テーマ・解釈・結論」の展開からいっても「テーマ」の部分が飛ばされています。
しかし、開目抄と引き合わせて読むと
「観心本尊抄」のテーマの部分は、開目抄の中にあることがわかります。

開目抄の冒頭から読んでいくと、
最初の段階で「一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底にしづめたり。
竜樹・天親知つて、しかもいまだひろい・いださず。但我が天台智者のみこれをいだけり」(一八九頁)という文がありますが、ここで一念三千の法門が大きな問題として提示されています。

大聖人はこれを受けて「一念三千は十界互具よりことはじまれり」(同頁)という
新たなテーマを立てて、この問題を考察していくのですが、開目抄では、
あくまでも「教」の面と「人」の面からのアプローチに止めています。

本当ならここで「観心」の面と「法」の面からアプローチをしていく方法もあったと思うのですが、
その「観心」と「法」の二つの問題を考察しているのは「観心本尊抄」なのです。

つまり、開目抄の「一念三千は十界互具よりことはじまれり」は、同時に「観心本尊抄」のテーマとなるのです。また、開目抄が「人」の面からアプローチしたにも関わらず、
結論段階で法華経の行者が体現している「法」の問題に行き着きました。

それと同じく、観心本尊抄も「法」の面からアプローチを進め、
最終段階でその「法」を末法に弘めていくのは誰なのかという「人」の問題に戻っていきます。

そして「観心本尊抄」の最終段階でその結論を次のように語られました。
「一念三千を識らざる者には、仏・大慈悲を起し、
五字の内に此の珠を裹み、末代幼稚の頚に懸けさしめ給う」(二五四頁)

――一念三千を識(し)らない末法の人々に対して、仏は大慈悲を起こし、
一念三千を本尊として末代幼稚の首に懸けよう――と。
ここで大慈悲を起こした「仏」とは誰のことなのでしょうか。

こういう問題を解決していくためには「開目抄」と「観心本尊抄」は、
お互いに補い合う関係にあるものとして読まないと内容が正しくつかめないと思います。