投稿者:大仏のグリグリのとこ 投稿日:2015年 1月14日(水)10時25分43秒  

その前に、観心本尊抄を研鑽する心構えについて確認したいと思います。
これは大聖人自らが「観心本尊抄送状」で述べています。
では本文です。
「観心の法門、少少之を注して大田殿、教信御房等に奉る。此の事、日蓮身に当るの大事なり之を秘す。無二の志を見ば之を開たくせらる可きか。此の書は難多く答少し。
未聞の事なれば人、耳目を驚動す可きか。
設い他見に及ぶとも、三人四人坐を並べて之を読むこと勿れ。
仏滅後二千二百二十余年、未だ此の書の心有らず。国難を顧みず五五百歳を期して之を演説す。
乞い願くば、一見を歴来るの輩は師弟共に霊山浄土に詣でて三仏の顔貌を拝見したてまつらん」(二五五頁)

――観心の法門を少々これを書いて大田殿、曾谷殿、その他強信の人々に送る。
この事は日蓮が身に引き当てての大事であり深くこれを秘す。
純真な信心で無二の志があるならばこれを開いて拝読せよ。この書は論難が多くて答えが少ない。
今まで聞いたことがない法門だから恐らく人々は耳目を驚動するであろう。
たとえ他人が集まって見る時でも、三人四人と座を並べてこれを読んではならない。
仏滅後二千二百二十余年の今日に至るまで、いまだこの書の肝心が世に説かれることはなかった。
いま日蓮は王難を受け、佐渡へ配流されている身であることも顧みず、
五五百歳に当たる末法の初めを期してこの未曾有の法門を述べ説き明かすのである。
こい願わくば、この書を一見した弟子たちは、
必ず堅く信じ抜いて師弟ともに霊山浄土に詣でて三仏の御顔を拝見しなさい――と。

この観心本尊抄に記した内容は、大聖人自身の悟りを明かした法門であり、
いいかげんな姿勢で絶対に読んではならないことを戒められています。
富木殿、大田殿、曾谷殿等、ここに名前を記されている人々は、
その信心を一往は認められてこの書を読むことが許されたのでしょう。

しかし、もし他の人に見せる場合は、「無二の志」の人でなければならないと断言しています。
「無二の志」とは、大聖人を信じて疑わない人、どんなことがあっても退転せず、
生涯、信心を貫く人、またその覚悟があるということです。

また「此の書は難多く答少し。未聞の事なれば人、耳目を驚動す可きか。
設い他見に及ぶとも三人四人坐を並べて之を読むこと勿れ」とありますが、
仏法の歴史において、古来から「究極の真理」や「法体」というものは、言語道断とされ、
言葉として表し得るものでもなく、思考の及ぶところではないとされてきました。

当時の仏教者の本尊観は、釈迦像や薬師如来などの仏像が本尊であることが当たり前に定着していて、
誰も異論を唱える僧侶はいなかったと思います。

大聖人はそれを具体的に「本尊」として図顕し、題目を万人が唱えて実践できるものとしたのです。
これは当時の時代としては画期的な本尊革命であると同時に、難信難解であり、
既存の知識や道理で説き明かせるものではありませんでした。

もしこれを「おおやけ」にするならば、疑惑を生じ、ひいては不信、謗法に発展し、
かえって多くの人々を地獄の罪に追いやる可能性がある。

このことから「之を秘す」といわれ、「三人、四人坐を並べて之を読むことなかれ」と戒められたのだと思います。

だからと言って、絶対に誰にも見せてはいけないという事ではありません。
それは「無二の志を見ば之を開たくせらる可きか」の文からも明らかです。
真に胸襟を開いて語り合える同志であるならば、ともに研鑽してもよいと言うことだと思います。

それに、すでにこの「観心本尊抄」は宗派を問わず全世界に公開されています。
私たち会員も、大聖人の図顕した御本尊を無二と信ずる同志の集いであり、広布の大願に立った異体同心の同志です。
この書を研鑽する資格は十分にあると確信します。