投稿者:まなこ   投稿日:2015年 6月25日(木)22時54分38秒     通報
遠藤: 言うまでもなく、「長者」は仏、「子どもたち」は一切衆生です。
子どもたちが火宅で遊んでいるのは、衆生が苦悩の世界にいながら、そのことに気づかず、やがて苦しみの炎に焼かれてしまうことを表しています。
羊車、鹿車、牛車で、子どもたちの気を引きつけたのは、仏が衆生を救うために、衆生機根に合わせて、三乗(声間・縁覚・菩薩のための教え)を説くことです。
大百牛車を与えたのは、仏の真意は三乗ではなく一仏乗(仏になるための唯一の教え)であると明かすこと、すなわち「開三顕一」です。
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譬喩品から
「我は為(こ)れ衆生の父なり。応に其の苦難を抜き、無量無辺の仏智慧の楽を与え、其れをして遊戯せしむべし」(法華経p216)

私は衆生の父である。彼等の苦難を抜き、無量無辺の仏の智慧の楽しみを与えて、人生を自在に遊戯できる境涯にしてあげよう。
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名誉会長: 一仏乗を表す「大白牛車」も、実に壮麗に描かれているね。これ自体、何とかして仏の境涯を伝えようとする譬喩となっている。

斉藤: はい。経文には「七宝の大車」(法華経p213)とあります。長者は、蔵にたくさんの宝をもっていて、そこから取り出した金・銀・瑠璃・瑪瑙などの七宝で作られた車が「大白牛車」です。その車に取り付けられた欄干の四方には、鈴が金の縄でくくりつなぎあわせられています。さらにそのうえには真珠の網が張りめぐらされています。

名誉会長: 見宝塔品(第十一章)の「宝塔」を思わせるね。

須田: 車を曳く白牛も見事です。清らかな皮膚をして、歩く時には、平らにまっすぐ歩き、走る時は疾風のように走ります。この宝の車に乗って、子どもたちは自由自在に楽しんだと説かれています。

名誉会長: まさに仏の境涯です。三車を与えるという方便で火宅から救ったのは“抜苦”です。大白牛車を与えたのは“与楽”です。仏の智慧という最高の安楽の境涯を与えたのです。(本文p13、とp15 の譬喩品の文を参照)。
「大白牛車」とは、いかなる険難の峰も自在に走り回り、遮るものはないという仏の大境涯を譬えられている。大聖人も、「法性の空に自在にとびゆく車をこそ・大白牛車とは申すなれ」(大百牛車御消息p1584)と明快に仰せになっている。
この御書の中で大聖人は、鳩摩羅什の漢訳では大白牛車の様子が略されているとしたうえで、ご自身がご覧になった梵語の法華経を参照し、壮大な大白牛車を描かれている。
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譬喩品から
今此の三界は 皆是れ我が有なり 其の中の衆生は 悉く是れ吾が子なり 而も今此の処は 諸の患難(げんなん)多し 唯我れ一人のみ 能く救護を為す (法華経p233)

今、この三界はすべて私の所有するところである。その中にいる衆生は、ことごとく私の子である。しかも今、この三界には諸々の苦悩が多く、私一人のみが、彼等を救い護ることができる。
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遠藤: はい。縦・横・高さがそれぞれ五百由句という壮大さで描かれています。これは、見宝塔品で説かれる宝塔よりも大きいわけです。高さは同じですが、縦・横は宝塔の二倍ありますから。

須田: 大聖人が基にされた梵語の法華経は、今日に伝わる梵文とは違うようですが、御書によりますと、銀をもって磨きあげられた階段が三十七段もあり、八万四千の宝の鈴が車の四面にかけられ、四万二千の欄干には四天王が番人を務め、車の中には六万九千三百八十余体の仏・菩薩が蓮華座に座っているとあります。

名誉会長: 想像を絶する壮麗さです。昔よく見た牛に引かせる車を想像してはいけない(笑い)。今はあまり見かけないだろうけれども。この大白牛車を描ききる妙法の画家が出てくれれば、私は本当にうれしい。

斉藤: 「六万九千三百八十余」とあるのは、法華経の文字数と同じです。
開目抄には「此の経一部八巻・二十八品・六万九千三百八十四字・一一に皆妙の一字を備えて三十二相・八十種好の仏陀なり」(御書p209)と仰せです。法華経の文字は、一文字一文字が仏であり、これだけの数の仏が、車の中に厳然といらっしゃるということになります。

名誉会長: 大白牛車とは法華経そのものです。その実体は、仏の妙なる生命です。南無妙法蓮華経の大生命そのものです。
ゆえに大聖人は「抑(そもそも)法華経の大白牛車と申すは我も人も法華経の行者の乗るべき車にて候なり」(大白牛車御消息p1584)と断言しておられる。

遠藤: この「大白牛車」の荘厳な様子は、火宅の姿と対極をなしている、とも言えますね。

名誉会長: その通りです。愚痴と無明に覆われた衆生は、自らの住む家が火宅となって燃え盛っていることに気づかないばかりか、自身の命に仏の生命が具わることにも、まったく気づいていない。その内なる「燦爛(さんらん)と輝く生命」を譬えによって教えているのです。