投稿者:まなこ   投稿日:2015年 6月25日(木)19時34分23秒     通報
■ 三車火宅の譬え

遠藤: 譬喩品は、舎利弗の深い歓喜の言葉から始まります。方便品の開三顕一の説法を聞いて領解した歓喜です。
舎利苑は、その喜びを全身で表現しています。
「爾の時に舎利苑、踊躍歓喜して、即ち起ちて合掌し」(法華経p193)と。舎利弗は躍りあがって喜び、起って合掌したのです。大聖人は「色心の二法を妙法と開悟するを歓喜踊躍と説くなり」(御書p722)と仰せになっています。「歓喜踊躍」とは、我が「色法」も、我が「心法」も、ともに「妙法」と一体であると悟った喜びなのです。

斉藤: しかし、他の弟子たちは、まだわかっていません。そこで舎利弗は、他の弟子たちのために、「未だかつて聞いたことのない法」のいわれを説いてくださいと釈尊にお願いします。それに応えて説かれたのが「三車火宅の譬え」です。

遠藤: 法華経の七譬の最初です。この譬喩品の三車火宅の譬えに続いて、信解品(第四章)では「長者窮子の譬え」が説かれ、薬草喩品(第五章)で「三草二木の譬え」、化城喩品(第七章)で「化城宝処の譬え」、五百弟子受記品(第八章)で「衣裏珠の譬え」、安楽行品(第十四章)で「髻中明珠の譬え」、如来寿量品(第十六章)で「良医病子の譬え」が次々と説かれていきます。

名誉会長: 譬喩品のみならず、法華経全体からいっても、譬喩は重要な意味をもっている。
方便品に「諸法寂滅の相は 言を以って宣ぶべからず」(法華経p188)とあるように、仏の悟った甚深の法は、もとより言葉によっては表現しがたいものです。かといって、仏の悟りの法が仏の胸中にのみとどまっていれば、衆生の成仏の道を閉ざすことになってしまう。
仏が譬喩を駆使して語るのは、まさに衆生の心に仏道を開示せんがためです。

須田: それでは、三車火宅の譬喩を、あらまし紹介したいと思います。
—- ある町に年を取った一人の大長者がいました。長者の家は大邸宅でしたが、古くて、建物は傾き、ボロボロの状態でした。
その古い大きな家に突然、火事が起こり、たちまち家屋敷全体が火に包まれてしまう。
家の中には、長者のたくさんの子どもたちがいました。
家が燃え、崩れ落ちようとしている。危険ががいよいよ我が身に迫っている。
しかし、遊びに夢中になっている子どもたちは、そのことに誰も気づかないし、気づこうともしない。
「三界は安きことなし猶火宅の如し」(法華経p233)とあるように、焼けている家(火宅)は、煩悩の炎に包まれた現実の世界(三界)を譬えています。その描写がすごい。

遠藤: 毒虫、蛇、鼠、狐狼、夜叉、悪鬼、魑魅魍魎(ちみもうりょう)、そして突然、あがる火の手。まるで現代のホラー映画を見ているように、これでもかこれでもかと、おどろおどろしい光景の連続です。そして、場面は一転して、無邪気に遊ぶ子どもたちの姿が現れる。

名誉会長: 優れた映画の見事なカメラワークを見ているようだね。
「人生は火宅の如し」。一日一日を、何も考えず享楽的に生きる人生の危険を、強烈なイメージで焼き付けることに成功している。
法華経は、人生の苦しみを非常にリアルにとらえている経典です。そこに法華経が文学的にも高く評価されてきた一つの理由があると思う。魯迅も火宅の炎を素材に「死火」という文章を書いている。

斉藤: 現実を幻ととらえる傾向の強い他の大乗経典と大きく異なるところです。諸法即実相、現実即真理ととらえる法華経らしい特徴だと思います。

名誉会長: それもあるだろう。しかし、その心は「慈悲」です。衆生を何とか救おうという「救済の心」であり、衆生の苦悩に対する「同苦の心」です。

遠藤: 三車火宅の譬えの後半は、その救済の物語です。
長者は火宅に飛び込み、子どもたちに早く家から出るように告げます。しかし、遊びに夢中になっている子どもたちは、火事だということがわからない、焼け死ぬということがどういうことなのかもわからず、ただ家の中を走り回っています。
そこで長者は、一計を案じて、子どもたちに「お前たちが欲しがっていた羊の車、鹿の車、牛の車が門の外にあるよ。早く家から出なさい。好きな車をあげるから」と呼びかけます。すると子どもたちは、喜び勇んで争うようにして燃えさかる家から走り出る。こうして子どもたちは救われました。

須田: 子どもたちが、早く約束の車をくださいと父に言ったら、長者は、羊の車、鹿の車、牛の車ではなく、「等一の大車」を与えた。それが「大白牛車」です。三車は、三乗の法を譬えています。つまり、羊車は「声聞のための教え」、鹿車は「緑覚のための教え」、牛車は「菩薩のための教え」です。そして、実際に子どもたちに等しく与えた大白牛車は一仏乗、すなわち「仏になる教え」を譬えています。