投稿者:まなこ   投稿日:2015年 6月25日(木)08時29分26秒     通報
法華経の智慧 第二巻
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§譬喩品§
■ 譬喩 —- 「慈悲」と「智慧」の馥郁たる結晶

斉藤: 読者の方から、よくご質問をいただきます。
なぜ法華経には「三千塵点劫」とか「五百塵点劫」とか、想像も及ばない長い時間を表す言葉が出てくるのでしょうかと。

遠藤: 私も同感です。例えば寿量品の「五百塵点劫」のところでは、「五百千万億那由佗阿僧祀」という天文学的な数の「三千大千世界」を粉塵にします。そして東の方へ進み、「五百千万億那由佗阿僧祀」の国土を過ぎるごとに、その塵を一粒ずつ落としていく。
釈尊は“善男子よ、すべての塵がなくなるまで通り過ぎた世界の数は、どれほどあると思うか”と問いかけていますね。

須田: その無数の世界を、さらに粉塵にしてできた粒のそれぞれを一劫とする。まさに長遠な時間です。
これを“ゼロが何百個並ぶ”とか“十の何百乗”とか、端的に数字で示せたら、その方が、話は早いかもしれません。

池田名誉会長: それなら、法華経もずいぶん短くなるだろうね(笑い)。
だが、考えてみよう。もし仏が「私は十の何百乗年前という昔に仏になった」と言ったとしても、弟子はそれを「はい、そうですか」と、受け身で聞くしかない。
しかし“三千大千世界を粉々にして、一つの国土ごとに一粒ずつ落として —- ”と、「物語」として聞けば、弟子はその長遠さを自分でイメージし、能動的に考えることができる。

斉藤: なるほど。法華経の多くの「譬喩」も、このイメージの力を証明していますね。

名誉会長: その通りです。ある学者は、教育の視点から、譬喩の効果を説明している。
譬喩を用いて教えることは、教わる側(生徒)に、教える側(教師)が歩んだ思考の道のりを、そのままたどらせることになる。つまり、単に知識を「受け身」で聞くのではなく、“自分で考える”という「能動的な精神作用」を促すことになると(O・F・ポルノー著『言語と教育』、森田孝訳)。

遠藤: 精神的な病を対象とした心理療法の分野でも、“自分で考える”ことを重視しています。例えば「箱庭療法」は、治療を受ける人が、砂の入った箱に、小さな人形や家の模型などを置き、自由に“庭”をつくっていくものです。箱庭をつくることは、その人が自分で物語をつくることでもあり、それがその人の心に、自己治癒力を活性化させることにつながっていくというのです。

名誉会長: 箱庭療法は、教育部の「教育相談室」でも行われているね。

斉藤: はい。「教育相談室」は、全国に二十七カ所あります。開設以来二十七年(1995年)になりますが、これまで、延べ二十万人以上の方が来談され、好評とうかがっています。

名誉会長: 尊いことです。悩める人々を全力で励ましてくださっている。これこそ菩薩の行動です。ともあれ、法華経には、心に残る譬喩や物語が、ふんだんにちりばめられている。代表的なものは「法華七譬」と呼ばれ、古くから親しまれています。
「七譬」のうち最初の「三車火宅の譬え」が説かれるのが、譬喩品です。
この譬喩品を中心に譬喩の意義について語っていこう。

須田: はい。では最初に、譬喩品の全体像を概観しておきたいと思います。