投稿者:まなこ   投稿日:2015年 6月25日(木)00時06分18秒     通報
遠藤: 厦門大学といえば、昨年(一九九四年)、池田先生に名誉教授の称号が贈られました。創価大学との交流も始まっています。先日は、池田先生の肖像のレリーフも届けられました。

須田: 魯迅は、たしか厦門大学で教鞭をとっていますね。短期間ですが。

名誉会長: そうだね。「平民学校」は、厦門大学の学生が貧しい子どもたちのために開いた学校です。自分たちが教師となって教えようとした。魯迅は、その開校式に招かれ、講演したのです(一九二六年十二月)。
初めに、大学の権威的な教授が登壇した。拍手はなかった。教授は、平民学校の意義について、こんなふうにしゃべった。
「この学校の平民に利益あること、例えば —- 例えば召使いが文字を知るとせば、手紙の配達は誤配がなくなり、主人は喜ぶ —- 」
とんでもない民衆蔑視の発言だった。平民が勉強するのは支配者に喜ばれるためだというのです。教授は魯迅の射るような視線に出合って、しどろもどろになった。
「 —- ええ、主人が喜び —- 」「かれを使うと、かれはめしにありつく —- 」。会場からは、嘲笑が起こった。彼は、すっかり慌てて、逃げるように壇から下りたという。ここで魯迅が立った。
「わたしの言いたいのは、あなたがたはみな労働者・農民の子供です。貧しいために、勉強の機会を失いました。しかし、あなたがたの貧しいのはお金だけです。聡明さと知恵ではありません。あなたがた貧しい者の子供は同じように聡明であり、同じように知恵があるのです」
魯迅は、最前列で冷や汗をかいている教授と学長を一瞥した。そして、子どもたちに向かって言った。
「あなたがたを永久に奴隷のように使える、そんな大きな権力をもつものはどこにもいません」「また、あなたがたを一生涯貧乏人にしておく運命などというものもありません」
魯迅の声は一段と高くなった。
「あなたがたは決心するかぎり、奮闘するかぎり、かならず成功し、かならず前途があるのです」
会場は嵐のような拍手で揺れた(魯迅の厦門大学での講演の模様は、石一歌著、金子二郎・大原信一訳『魯迅の生涯』、東方書店)。

遠藤: 心を揺さぶられる話ですね。

名誉会長: 魯迅は、どんな境遇にあろうと、すべての人間が等しく、広大な可能性をもっていることを教えたかった。そして、その可能性を阻む、いかなる権力にも、運命にも、絶対に屈してはならない、そんなものは打ち返そうではないか、奮闘しようではないかと訴えたのです。

斉藤: 考えてみれば、釈尊が「諸法実相」の法を説いた元意も、そうした奮闘を呼びかけるものだったのではないでしょうか。釈尊自身が、その先頭に立って戦った。
方便品には「私は、仏眼をもって六道(地獄界から天界まで)の衆生を見た。彼らは貧窮し、福運も智慧もなく、生死の苦悩の険しき道に入って、絶え間なく苦しみ続けている —- さまざまな誤った思想に深く染まり、苦を捨てようとしながら、そのことでまた苦しんでいる。こうした衆生のことを思うと、大悲の心が起こってきた」(法華経 p185、趣意)とあります。

名誉会長: 「大悲」の「悲」とは、「同苦する」ということです。ともに苦しむ「うめき声」が、その原義とされる。すべての衆生を、何としても苦悩の“鉄鎖”から解放したい。そのために釈尊は悩み、戦ったのです。
方便品には「我濁悪世に出でたり」(法華経 p187)とある。闘争へ踏み出す釈尊が、心に叫んだ第一声です。
偉人は嵐の中に立つ。乱世に挑んでこそ偉大な人になるのです。そして偉人が嵐と戦う胸中には、次の世代への慈愛が海原のごとく広がっている。
厦門大学の学生が、平民学校の開校式の会場に向かう魯迅に言った。「あなたのそばにいると、ほんとうに大海の傍にいるのと同じように、気持がすっきりします」。
「いや、ほんとうの大海は、見たまえ、あすこにある」。魯迅はそう言って、元気よく講堂に入っていく労働者の子どもたちを指差したという(『魯迅の生涯』)。

遠藤: 大海といえば、古来、法華経も「大海」に譬えられました。

名誉会長: そう。大聖人は「大海の水は一滴なれども無量の江河の水を納めたり、如意宝珠は一珠なれども万宝をふらす」(御書 p1200)と仰せになっている。
部分に全体が含まれている。一人の存在に、一切の宝がある。一人の行動から、無限の価値創造のドラマが始まるのです。

斉藤: ホワイトヘッド(イギリス出身の哲学者)も、自然は“ものの集合”ではなく“できごとの連鎖”であるとした哲学者ですが、こう言っています。
「環境条件が許す限りの完成を目指す —- このようなものとしてのみ理解できるのが生命である。そして、生命の目指す先は、すでに達成された事実を常に超えている」(『観念の冒険』)。つまり、生命は可能な限り、どこまでも完成を目指すというのです。すでに達成された現在を、常に乗り越えていこうとするのが生命なのだと。

名誉会長: そうかも知れない。生命は、物理学的な因果律に支配されるだけの単なる機械ではない。もちろん物質でできている以上、生命体に“機械の側面がある”のは当然である。しかし“機械にすぎない”のではない。
生命は本来的に、“価値を創造しよう”という要求をもっている。価値も「関係性」の概念ですが、「関係の織物」であるこの世界にあって、常に「よりよき関係」すなわち「より大きな価値」を創造しようとしている。
より美しい織物(美)、より役に立つ織物(利)、より善なる織物(善)を織ろうとする。この「創価(価値創造)作用」に、生命の大きな特色があることは確かだと思う。
その意味で、「戦い」こそが「生きている」証です。
“すでに達成されている現在”を常に超えていく —- 十界互具という実相から見れば、生命は、現在、いかなる姿をとっていても、今の自分を超えて最大の完成を目指そうとしている。
生命の本然の姿は、仏界という完成へと向かっているのです。「合掌向仏(一切衆生は根底で仏に向かって合掌している)」です。
こういう実相を示しているのが諸法実相であると思う。ここに、いかなる生命もかけがえのない存在であることが示されているのではないだろうか。
この「法華経の心」を叫びきって戦われたのが日蓮大聖人であられる。近代においては大聖人直結の牧口先生、戸田先生です。
今年(一九九五年)は、学会創立六十五周年。一人一人の民衆に「あなたのかけがえのなさ」を教え続けた六十五年であった。そのために、民衆蔑視の勢力と戦い続けた六十五年であった。
牧口先生が獄死された後、戸田先生は獄中にあって、一詩を詠まれた。
「如意の宝珠を我もてり
これでみんなを救おうと
俺の心が叫んだら
恩師はニッコと微笑んだ」

須田: 池田先生が、小説『人間革命』(「一人立つ」の章)で紹介してくださいました。

名誉会長: そう。「如意の宝珠」とは一念三千であり、御本尊です。「宝珠即一念三千なり」(御書 p741)と御書にはある。
一念三千の信仰とは、自分一人いれば、すべてを変えてみせるという大確信ともいえる「一人立つ」信心です。
この六十五周年から、いよいよ“一切を担って立つ”本格派の人材が躍り出る、
本門の時代に入った。目指すは、二○○五年の創立七十五周年です。

斉藤: 七十五周年 —- 妙法の「七字五字」に通じますね。

名誉会長: 一人一人が、妙法の無限の力を満身に漲らせて立つ時代です。その一人の中に、学会という全体がある。その一人の中に、二十一世紀がある。
ゆえに一人ももれなく、「私はこの世に、このために生れてきたのだ」という、かけがえのない使命を、事実の上で果たし切ってほしいのです。
その“戦う心”“戦い続ける心”自体が、すでに“勝った心”であり、本門の十年を絢爛と飾りゆく原動力なのです。

(法華経の智慧 第一巻 了)