投稿者:ジョーカー   投稿日:2015年 6月24日(水)10時25分33秒     通報
人生は原則、等価交換の原理で成り立っている。ほしいものがあれば、それに見合った対価を支払うというのが基本原理である。もちろん原則があれば例外も存在し、それは生活保護などに代表される相互扶助(困っている人を助ける、支える)仕組みなどである。等価交換が原則なので、「無条件」ということに人は拒否反応を示すのが普通ではあるが、等価交換の原理を越えた「無条件の愛情」等も存在する。

もう一段掘り下げて、仏法ではどのように説くのか考察していきたいと思います。

御書P960 通解
「高い山に登れる者は必ず下るように、人を軽しめれば、かえって人に軽しめられる。容姿の端正な人を悪口すれば醜く生まれ、人の衣服や食べ物を奪えば餓鬼となる。戒を持つ尊貴な人を笑えば貧賤の家に生まれる。正法を謗れば、邪見の家に生まれる。十善戒や五戒を持つ人を笑えば国土の民となって王難に遭うのである。これは因果の定まった法である。」

これを常の因果といいます。所謂、「自分がやったことはすべて自分にかえってくる」という因果論です。しかし大聖人は自身が難に遭っているのはこの因果ではないと言われています。それでは続きを見ていきましょう。

「日蓮が苦難にあっているのはこれらの因果のゆえではない。過去に法華経の行者を軽んじたために、また、法華経は月と月とを並べ、星と星とを連ね、華山に華山を重ね、玉と玉とをつらねたような尊くすぐれた御経であるが、その法華経をあるいは上げ、あるいは下してあざけりあなどったために、この八種の大難に遭っているのである」

法華経を謗った罪により難に遭っていると仰せです。法華経の中にすべてが含まれる、つまり「全部入り」ということです。それは言い換えれば、法華経の中にすべての功徳が具わっていることとも言えます。これについて戸田先生は法華経方便品寿量品講義の中で、このように指導されています。

「御本尊を拝んで『どうか、お金持ちにしていただきたい』という願いが、こちらに起こりますと、過去世に植えていなかったところの、金持ちになる原因というものが植えつけられるのであります。貧乏の原因しかなかったのに、題目の力で、金持ちになる原因を過去に作ったと同じように植えてしまうのであります。金持ちになる原因を植えたのでありますから、貧乏になる原因がなくなってしまうのであります。そして、欲しくなくても、何でも金が入ってきてしまいます。それが神通力なのであります。」

題目をあげることが因をつくることになるという因果論。これが日蓮仏法であり、まことに不思議な法であります。だからといって現実に何もしなくていいのかというと、そういうことではありません。根底はこの因果論ですが、表は常の因果であり、行動が大事になります。「仏法は道理」とはそのことを指します。

基本原理は等価交換であり、それが凡夫の世界です。戸田先生が功徳論を表にして戦いを起こしたのも、そうでなければ凡夫は納得も共感もしないからでしょう。人間の機微がわかっていて、痒いところに手が届かなければ広宣流布は出来ないことを知悉していたからこそ、罰論を封じたのではないでしょうか。

「学会活動すれば功徳がある」と呼びかけるのも、等価交換の原理が働いています。功徳という見返りがあってこそ、人はやる気を起こすことができる。喜捨の精神こそが仏法者、仏の振る舞いではありますが、それは自覚の問題であり、他者が強制できるものではありません。よって、あくまでも凡夫の側面が重要になるわけです。

人は正しいから動くのではなく、「感動」したときに動きます。感動という対価を支払ってこそ、人の心を変えていくことができる。いかに感動という価値を生じさせるか、それが戦いなのかもしれません。