投稿者:ジョーカー   投稿日:2015年 6月24日(水)01時31分3秒     通報
・共戦様
>仏の顔は三度まで

戸田先生 師弟の宝冠VOL.6より
「人間というものは、同じことを何度も言われなければ、自分の考えを変えないものだ。そこから、間違いが生ずる。だから、繰り返し、繰り返し、注意せよ」

人間とはやっかいなものです。何度も何度も同じことを繰り返し、簡単に改めることはない。借金癖のある人にやさしくし、お金を貸し続けることは御法度であり、改まるどころか益々増長していきます。この場合は厳しい対応が必要であり、本人に気づきと自覚がなされない限り、ループします。そこには、「貸してくれるのが当たり前」という心理があり、「自分でなんとかする」という自覚に立てなければ抜け出すことはできません。

同じように、何度も擁護しても、本人が気づきを得て、自覚しなければ、変わることはありません。このことを昨日友人と話をしたばかりです。仏の顔は三度どころか、10年間尽くしたとしても、変わらない人は変わりません。「いつか変わるだろう」「いつか良くなるだろう」という安易な優しさと希望的観測は、事態を好転させるどころか、悪化させることにもなりかねない。また、どれだけ厳しい叱責を受けても、変われない人は変われません。

変われる人と変われない人の違いは一体何なのだろうか。先生に厳しく注意されても、山友は反逆していってしまったし、五老僧も日興上人の諫めに聞く耳を持たなかった。その心根はどうなっているのか。裏切る人間は、また裏切る可能性は大であり、傾向が変わることはほとんどない。これは信心していようとしていなかろうと同じです。本人の資質の問題なのか、はたまた業が深いのか。頭ではわかっていても、体感としてわかることは全然違う。体感とは心からの気づきと自覚です。

日蓮大聖人は「三度の高名」で、諫暁を三度行いました。この三という数字に意味があり、仏の顔も三度までの通り、チャンスは三回。これで変わることができないのであれば、何度諌めても変わらない数字なのかもしれません。人が他人を変えることは困難ですが、それでも三度までは挑戦する価値はあります。この時に相手の人間性がわかるでしょう。即ち「話を聴く姿勢」こそが人の振る舞いであり、問われてしまう。そういう意味で、教学部の反対意見に聞く耳をもたなかった執行部は心配なのです。

一度失った信頼と信用をとりかえすことは容易ではありません。心からの気づきと自覚がなければ執行部は詰みます。大いに後悔し、失敗を認めることができた時に、気づきが得られ、自覚が生じるものなのかもしれません。