投稿者:まなこ   投稿日:2015年 6月22日(月)18時56分3秒     通報
須田: 一生成仏抄にも「妙法と唱へ蓮華と読まん時は我が一念を指して妙法蓮華経と名くるぞと深く信心を発すべきなり」(御書 p383)と仰せです。自分の生命(諸法)が「妙法蓮華経(実相)」そのものなのだと。

斉藤: また、こうも仰せです。
「我が身の体性を妙法蓮華経とは申しける事なれば経の名にてはあらずして・はや我が身の体にてありけると知りぬれば我が身頓て法華経にて法華経は我が身の体をよび顕し給いける仏の御言にてこそありければやがて我が身三身即一の本覚の如来にてあるものなり」(御書 p411)
妙法蓮華経とは経典の名前だろうと思っていたら、そうではなかった。自分自身のことだった。妙法蓮華経は、本来の自分(自身の実相)を呼び顕す仏の言葉なのだと。

須田: そのことを心の底から分かれば、どう変わるのか。御文は続いています。
「かく覚ぬれば無始より已来今まで思いならわしし・ひが思いの妄想は昨日の夢を思いやるが如く・あとかたもなく成りぬる事なり」(御書 p411)
今までずっと、自分はつまらない存在だと思い込んでいた錯覚は、跡形もなく消えてしまう。まるで昨日の夢のように。

遠藤: その様子は、あたかも、月を覆っていた雲が晴れ、晧々たる月輪が輝き出すようであるとも説かれていますね(御書 p414)。諸法の実相が分かれば、実は仏も衆生も“一つ”であり、別々ではないのですね。
ただ、それは私たちの生活において、具体的に、どうなることなのか。それが分からないと、諸法の実相といっても観念論のような気がするのですが —- 。

名誉会長: 戸田先生は、分かりやすく教えてくださっています。
「病気などで悩んでた人も、御本尊様を受持することによって、すなわち、安心しきった生命に変わるのだ。根底が安心しきって、生きてること自体が楽しいというようになる。生きてる自身が楽しいといったって、九界を具するのだから、ときには、悩むこともあるし、悩みが変わることもある。いままで自分のことで悩んでいたのだが、人のことに変わることもある。
生きてること自体が、絶対に楽しいということが仏ではないだろうか」と。
人生には、苦もあれば楽もある。信心が深ければ、それらの諸法(諸の現象)が、すべて仏界の十如是を強めるように働くのです。「苦楽ともに」楽しめる境涯になるのです。
大聖人が諸法実相の御本尊を顕されたことが、いかに偉大な、前代未聞のことであられるか。ありがたさが胸に迫ってきます。

須田: そういえば、大聖人は、諸法実相について述べられた主な御書で、必ず御本尊への信心の「実践」を強調されていますね。

名誉会長: それは大切なことに気がついたね。

須田: 例えば諸法実相抄には「一閻浮提第一の御本尊を信じさせ給へ」「行学の二道をはげみ候べし」(御書 p1361)とあります。
日女御前御返事には「南無妙法蓮華経とばかり唱へて仏になるべき事尤も大切なり、信心の厚薄によるべきなり仏法の根本は信を以て源とす」(御書 p1244)と仰せです。

名誉会長: 大聖人の仏法の根本は「信心」です。信を根本にしての「如説修行」です。

斉藤: 同じ法華経を拠り所としながら、この「修行」を見失ったのが、大聖人当時の天台宗です。
“衆生は本来、仏なのだ。そのままで仏なのだから、どんな欲望も、どんな現実も、そのまま肯定していいのだ”と。

名誉会長: 諸法実相の曲解です。
修行の放棄であり、現実への追従です。
諸法実相は、平板な「諸法イコール実相」ではない。
諸法即実相、実相即諸法。その「即」は「イコール」ではない。大聖人は「即の一字は南無妙法蓮華経なり」(御書 p732)と仰せです。一瞬たりとも停滞せず、顕現し、冥伏し、創造し、拡大してやまない生命のダイナミズムが「即」の一字には込められているのです。
諸法即実相といっても、あくまで仏が見た究極の真理です。迷いの凡夫が見る現実とは隔たりがある。ゆえに「人」は「真理」の実現へ向かって、絶えず近づかねばならない。それが「修行」です。諸法実相という「理想」に向かって、絶えず「現実」を超えていかねばならない。それが「変革」です。
この挑戦を忘れると、諸法実相という立派な法理を隠れミノにして、人は現実に埋没し、無気力になってしまいます。
これは恐ろしいことです。
無気力は、権力者を野放しにする素地になるからです。権力者の側からすれば、こんなに支配しやすいことはないのです。どんな悲惨な現実があっても、その現実を民衆が肯定し、受け入れてくれるのだから。
本来は、その反対に、生命の道に背く権力者を諌めるのが諸法実相の智慧です。それは大聖人の実践に明らかです。

遠藤: 天台宗は、法華経の「開会」の法門を曲解して、何らかの利益があると思えば、どんな教えも真実だと主張しました。
“念仏も、真言も、禅も、すべて法華経だ。そう信ずるのが修行なのだ”と。
「当世・天台宗の開会の法門を申すも此の経文を悪く意得て邪義を云い出し候ぞ」(御書 p1139)と大聖人は仰せです。

須田: いわゆる「本覚思想」ですね。
大聖人は、こうした邪義と厳しく戦われました。
「如説修行の人と申し候は諸乗一仏乗と開会しぬれば何れの法も皆法華経にして勝劣浅深ある事なし、念仏を申すも真言を持つも・禅を修行するも・総じて一切の諸経並びに仏菩薩の御名を持ちて唱るも皆法華経なりと信ずるが如説修行の人とは云われ候なり」(御書 p502)と彼らの主張を挙げられたうえで、「然らず」(御書 p502) —- そうではない —- と破折されています。