投稿者:まなこ   投稿日:2015年 6月23日(火)09時45分44秒     通報
名誉会長: 人それぞれに良いと思っていれば、どんな教えも同じ —- こうした宗教者の驕りと怠慢が、今の日本の精神風土をつくってきたとは言えないだろうか。

斉藤: その通りだと思います。
正邪の峻別を嫌い、安易な「和」に溶け合うことで保身を図る。そういう「なれ合い」を「寛容」と勘違いしている。
強力な現実には常に追従し、屈伏する。そのため、権力者と戦う民衆に対しては、権力者の手先となって封じ込めようとする。あるいは傍観し、正義を黙殺することで、悪に荷担する。
自分たちはうまく生き延びているつもりでいて、実は権力の魔の手に骨抜きにされていることに気づいていない —- 。

須田: こうした“理想なき現実主義”ほど、人間を卑小にするものもありませんね。

遠藤: また、本覚思想と反対の意味で極端なのが念仏の思想です。この世で仏になるのではなく、死んでから別のところに生まれ変わって幸せになるのだと主張する。
現世で幸せになれないのなら、どこに、来世で幸せになれる保証があるというのか。つきつめれば、現世で頑張るより、早く来世に行ったほうがよいとなってしまう。現実からの逃避、現実否定の宗教です。

斉藤: また禅宗などは、社会の現実と自分を分断し、自分だけの小さな世界に閉じこもってしまう傾向が強い。

名誉会長: これらに対して「諸法実相」を悟った仏とは、どういう仏か —- 大聖人は仰せです。
「本末究竟と申すは本とは悪のね善の根・末と申すは悪のをわり善の終りぞかし、善悪の根本枝葉をさとり極めたるを仏とは申すなり」(御書 p1466)と。
現実のこの世の「善」と「悪」を見極め、人々を救うのが諸法実相の智慧の実践です。この御文の直後に、大聖人は「智者とは世間の法より外に仏法を行ず」とされ、仏法以前の人であっても、民衆の苦しみを救った人は「教主釈尊の御使として」「内心には仏法の智慧をさしはさみ」行動したと仰せです。
教条的でない、広々としたお考えが、うかがわれます。
“この世に埋没する”現実追従。“この世に目をつぶる”現実拒否。“あの世に逃げる”現実逃避 —- 。
法華経は、このいずれでもない。
大聖人は、旧来の天台宗を、また禅宗・念仏宗を強く批判された。それらはすべて「諸法の実相」に背いているのです。
法華経の諸法実相は「現実を変革する」哲学です。
運命論には従わない。あきらめにも同調しない。それらの無力感をはね返す“バネ”を開発する。「だからこそ変えていくのだ」と闘志を奮い立たせる。そして「自分は今、何をなすべきか」と問い続ける責任感を呼び起こすのです。

遠藤: そううかがって思い出すのは、「一人の人間における偉大な人間革命は、やがて一国の宿命の転換をも成し遂げ、さらに全人類の宿命の転換をも可能にする」という、池田先生の小説『人間革命』のテーマです。これは法華経の智慧そのものであり、大聖人の仏法の根本精神なのですね。

名誉会長: 私は「戸田先生の弟子」です。そこに私の根本の誇りがある。
戸田先生は、獄中で法華経を身読された。
「法華経が分かった」と主張するだけの宗教者なら、他にもいたでしょう。教祖にまでなった者もいた。
しかし戸田先生は違っていた。あなたは仏様かと新聞記者たちから聞かれて、「立派な凡夫だよ」と語っておられた。挫折と蘇生のドラマを演ずる民衆群を抱きかかえながら、嵐の真っただ中に、厳然と立っておられた。
人間革命 —- 先生の人生そのものです。
人間革命 —- 先生はこの一言に、宗教が陥りやすい独善の罠を打ち砕いて、仏法の最高の智慧と、人間の最高の生き方と、社会の最善の道とを、見事に合致させたのです。

須田: 「一生成仏」と「立正安国」を、一言で現代の言葉に結晶させていると思います。

名誉会長: 人間革命は即、社会革命・環境革命になる。
諸法実相抄で大聖人は、妙楽の「依報正報・常に妙経を宣ぶ」(御書 p1358)との釈を挙げられています。依報(環境世界)も、正報(主体となる生命)も、常に妙法蓮華経を顕していると。
天台も言っている。“国土にも十如是がある”と。
依報も正報も、別々のものではない。不二です。ここから、人間の変革が国土・社会の変革に通じるという原理が生まれる。
諸法実相という仏眼から見れば、森羅万象は、ひとつの生命体です。正報だけの幸福はありえない。依報だけの平和もありえない。自分だけの幸福もなければ、他人だけの不幸もない。人を幸福にした分、自分も幸福になるし、だれか一人でも不幸な人がいる限り、自分の幸福も完全ではない。こう見るのが諸法実相であり、ゆえに、「現実変革への限りなき挑戦」が、諸法実相の心なのです。
大聖人は、立正安国論を著された御心境を「但偏に国の為法の為人の為にして身の為に之を申さず」(御書 p35)と述べられています。どんな大難の嵐も、この民衆救済への炎を消せなかった。
この御精神を受け継いで、「立正安国」の旗を高く高く掲げ、牧口先生は獄中に殉教なされた。戸田先生は、敗戦の荒野に一人立たれた。
「法華の心は煩悩即菩提生死即涅槃なり」「一念三千は抜苦与楽なり」(御書 p773)
民衆を苦悩から救うために仏法はある。創価学会はある。人類を幸福にするために創価学会は戦う。それ以外に存在意義はありません。
その学会とともに進む人生は、どれほど偉大か。どれほど尊いか。
諸法実相の眼で見れば、「いま」「ここ」が、本有の舞台です。本舞台なのです。「此を去つて彼に行くには非ざるなり」(御書 p781)です。
「宿命」とも思えるような困難な舞台も、すべて、本来の自己の「使命」を果たしていくベき、またとなき場所なのです。
その意味で、どんな宿命をも、輝かしい使命へと転換するのが、諸法実相の智慧を知った人の人生です。
そう確信すれば希望がわく。出会う人々、出あう経験のすべてが、かけがえのない「宝」となる。
タゴールはうたった。「この世は味わい深く、大地の塵までが美しい」と。
彼は子を思う母の心を、こう綴っています。
「妨や、おまえに きれいな色のおもちゃをもってくるとき、母さんにはわかります —- どうして雲や水に あんなに美しい色彩の戯れがあるのかが、どうして花々が 色とりどりに染められているのかが。坊や、おまえに きれいな色のおもちゃをあげるとき。
おまえを踊らせようと 歌うとき、母さんには ほんとうにわかります —- どうして木の葉のなかに 音楽があるのかが、どうして浪たちが 耳を澄ませて聴いている大地の心臓に さまざまな声の合唱を送るのかが。おまえを踊らせようと 歌うとき」(森本達雄著『ガンディーとタゴール』、第三文明社<レグルス文庫>)
子を慈しむ母の心には、色鮮やかな世界が輝いている。生き生きとした生命の音律が響いている。愛は、生命の個別性を超えて、「不二」という生命の実相へと心を開くからです。
ならば全人類を慈愛で包みゆかんとする私どもの人生には、どんなに素晴らしい生命の光彩が、音楽が、満ちあふれていくことか。
「諸法実相」と確信すれば、今いるこの場所が「常寂光土」です。
「生きてること自体が、絶対に楽しい」
戸田先生が言われた、この大歓喜の世界を、現実の大地に創り拡げていく。その晴れやかな「挑戦の人生」を、法華経は教えているのです。