投稿者:まなこ   投稿日:2015年 6月22日(月)10時08分24秒     通報
須田: 諸法実相抄には「地獄は地獄のすがたを見せたるが実の相なり、餓鬼と変ぜば地獄の実のすがたには非ず」(御書 p1359)と述べられています。

名誉会長: 「本末究竟等」については、より高次のとらえ方ができます。すなわち“仏が悟った実相においては、仏の生命(本)も、九界の衆生の生命(末)も、詮ずるところ(究竟して)、妙法の当体として等しい”ということです。ゆえに、いかなる衆生も、自身が妙法の当体であるという実相を悟れば、仏となる。
自身の生命の実相(妙法の当体であること)を悟るか否か、それだけが仏と衆生との違いなのです。
大聖人はこう仰せです。
「本と申すは仏性・末と申すは未顕の仏・九界の名なり究竟等と申すは妙覚究竟の如来と理即の凡夫なる我等と差別無きを究竟等とも平等大慧の法華経とも申すなり」(御書 p413)

遠藤: 諸法実相の四文字が「一切衆生皆成仏道の根元」であるとの大聖人の仰せの意味が、少し分かってきました。諸法実相は、“諸法にはいろいろな差別(違い)があるが、その実相は平等に妙法の当体である”ということなのですね。

名誉会長: そう。実相とは、無明を克服した仏の悟りから見た生命の真実の姿です。
そこでは、一切が平等であり、主体と客体、自分と他人、心と身体、心と物など一切の差異・差別を超えている。始めもなければ終わりもない。十界の差別も超えている。広大な広がりをもった「永遠の生命」の世界なのです。
生命であるということは、躍動であり、智慧であり、慈悲であり、不二の生死であり、法則であり、大宇宙に広がっても大宇宙が広すぎるということもない。素粒子に宿っても素粒子が狭くて困る(笑い)ということもない。
言葉も思考も超えて、まさに不可思議であり、「妙法」としか言いようがない。そういう世界です。
仏は、こうした生命の世界こそが、十界の衆生(諸法)の生命の本当の姿(実相)だと悟ったのです。つまり、“諸法(十界)の実相”です。
ゆえに、大聖人は「諸法実相 —- 本末究竟等」の経文の意義を、こう明かされている。
「下地獄より上仏界までの十界の依正の当体・悉く一法ものこさず妙法蓮華経のすがたなりと云ふ経文なり」(御書 p1358)
地獄界から仏界までの衆生(正報)も、その衆生の住む世界(依報)も、実は、すべて「妙法蓮華経のすがた」なのだと仰せです。
“諸法”は無数ですが、すべて“十界の依報と正報”に含まれます。それらが、ひとつのこらず「妙法蓮華経のすがた」として等しい(本末究竟等)と見るのが、“実相”を見ることです。
十如是も、このことを説こうとしたのです。
大聖人は「十如是と云は妙法蓮華経にて有けり」(御書 p415)と仰せです。
また「法界のすがた妙法蓮華経の五字にかはる事なし」(御書 p1358)とも言われている。宇宙全体が「妙法蓮華経のすがた」なのです。
戸田先生は「宇宙生命それ自体が、南無妙法蓮華経なのです」と言われていた。
諸法の実相を見るならば、人間も草木も、太陽も月も「妙法蓮華経」の姿でないものはない。森羅万象は「妙法蓮華経」の律動を奏でているのです。
現代人に分かりやすく、まとめて言えば、「諸法」は個々の生命、その諸法の「実相」は、ひとつの大いなる宇宙生命と表現することも可能でしょう。
数限りない個々の生命は、それぞれの「色心の因果」に則って、千差万別の多彩な生命の曲を奏でています。その曲は、表面的には、各々が勝手に奏でているように思えるかもしれない。しかし、それは部分観である。
その実相は、一切の曲が、まとまって、妙法という、ひとつの大いなる交響詩を奏でているのです。個々の曲は、それぞれ曲として統一性をもち、それぞれ完全でありながら、しかも、すべてが、妙法という宇宙生命のシンフォニーに、なくてはならない曲なのです。もちろん、これは譬喩にすぎません。
大切なことは、たとえば地獄界なら地獄界の衆生も、自己の真実の姿(実相)、すなわち“汝自身”を知れば、実は輝かしい宇宙生命と一体であるということです。
しかも、その宇宙生命は、ほかならぬ地獄界という自身の現実に即して開顕する以外にない。
「実相」という永遠の生命世界は、いつ、どこにあるか。「いま」「ここに」ある。それを悟れば仏、悟らなければ九界です。ゆえに、菩薩界が仏界に近いのでもなければ、地獄界が仏界から遠いのでもない。平等に、自己に即して仏界を開くことができるのです。
「個々の生命(諸法)」は即「宇宙生命(実相)」である。しかも「宇宙生命(実相)」と言っても「個々の生命(諸法)」を離れては存在しないのです。
こういう「諸法実相の生命の世界」を、大聖人は、こう表現されています。
「心すなはち大地・大地 即 草木なり」(御書 p1597)、白米一俵御書)と。「心」は宇宙生命と言ってよいでしょう。
法華経以前の経典では、まだ哲学が浅いゆえに、“心(宇宙生命)から万法(個々の生命)が出生する”等と説いた。心は大地のごとく、万法は草木のごとしと。心と万法が別々です。
しかし法華経は、そうではない。心がすなわち大地であり、大地はすなわち草木である。実相と諸法は一体である。分けられない。月も花も、ひとつひとつが、宇宙生命の全体と一つである。
「月こそ心よ・花こそ心よ」(御書 p1597)です。

斉藤: 多くの哲学が「現象の奥に」真理を見ようとしたり、「現実の根底」に根源の一者を立てたりしました。しかし、法華経は、そうではないのですね。
この白米一俵御書には「まことの・みちは世間の事法にて候](御書 p1597)との有名な御言葉があります。「世間の事法」という現実(諸法)に即してこそ、「まことの道」すなわち実相の智慧は発揮されるわけですね。

遠藤: 法華経法師功徳品(第十九章)では、法華経を受持する人に六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)が清浄になる功徳があると説きます。その中の意根の功徳をこう説いています(法華経 p561)。
—- 法華経を受持する人が説くことは、すべて実相に背かない。世間の書物や、治世の言葉や、経済の営みについて説いても、みな正法に適っている。
これを受けて天台は「一切世間の治生産業は皆実相と相違背せず」と述べています。

名誉会長: 法華経の偉大な功徳です。また、法華経を信ずる人のあるべき姿です。法華経を信ずる人は、善は善、悪は悪として、正しいことを説かなければなりません。それでこそ「実相と相違背せじ」となる。

遠藤: 次元は違うかもしれませんが、中国の古典に「一葉落知天下秋(一葉落ちて天下の秋を知る)」(唐庚『文録』)とあります。
「一葉が落ちる」姿を見て、「秋」の到来を知ることができる。あえて諸法実相に置き換えれば、「一葉が落ちる」姿は諸法、「秋」は実相でしょうか。

名誉会長: 見えない「秋(実相)」は、見える「一葉(諸法)」に自分を映し出すのです。諸法は実相の顕れです。また諸法に顕れない実相はありません。

須田: 諸法を見て実相を知る智慧は、学者や芸術家、商売上手な人、家庭をきりもりする聡明な母など、それぞれ一面的には持っているのではないでしょうか。

名誉会長: 当然、そうでしょう。法眼・仏眼にいたらなくとも、慧眼・天眼がある。
何と言っても、戸田先生は鋭かった。現象を通して本質を見抜く天才だった。先生ほどの指導者は、ほかにいないでしょう。
はじめに話題になった、日本の敗戦と荒廃の姿 —- これは「諸法」です。それを見て、先生は、「大仏法興隆の時」であると叫ばれた。これこそ諸法実相の智慧ではないだろうか。
逝去された年の「年頭の言葉」にも書かれていた。
「政治、労働、文化、経済、教育等々、各界がみな自界叛逆の相を呈して、五濁悪世の名にもれず、泥沼にうごめくがごとき状態を続けている。そして、これが一国謗法の総罰のすがたであるとは、だれも考えおよぶ者がいない」と。

遠藤: 具体的には何をさして、おっしゃったのでしょうか。

名誉会長: 政界では、組閣や閣僚ポストをめぐる内部分裂。労働界では、指導者層の、一般組合員層からの遊離。文化面では、健全な文化の育成を阻む学閥抗争 —- 等々を挙げられていた。

須田: そうした傾向は、今も変わっていません。問題は、なぜこうなるのかだと思いますが。

名誉会長: そう。戸田先生は、指摘された。
「もともと、あらゆる機構は相争うために生みだされたものではない。それは人類福祉のために考えられ、採用されたものであったはずである」

斉藤: まったく、その通りです。