投稿者:まなこ   投稿日:2015年 6月21日(日)23時04分27秒     通報
須田: たったの四文字が、なぜ一切衆生の成仏の根源になるのか。そこですね、難しいのは。

遠藤: 基本的な意味から確認したいと思います。
「諸法」とは、この現実世界において、さまざまな姿・形をとって現れている“すべての現象”と言えます。
「実相」とは、文字通り“か真実の相”、すなわち“真理”と言ってよいでしょう。天台によりますと、実相の「相」の字は、“真理は見えないが、諸仏が確かに覚知した壊せないものであることを示している”ということです(法華玄義)。

名誉会長: 見ることはできないが、厳として実在するということだね。

斉藤: はい。そして「十如是」は、「十如実相」と言われるように、この“見えないが、実在する実相”を言い換えたものです。
「如是」は“このような”という意味で、それぞれの現象、個々の生命(諸法)について、仏は「このような相(如是相)、このような性(如是性)、このような体(如是体) —- 」と実相を知見したというのです。

名誉会長: そう。「諸法の実相」と説かれていることが大事だね。真理(実相)と言っても、どこか遠い別世界にあるというのではない。具体的な現象(諸法)から絶対に離れず、あくまで、この具体的な現実(諸法)の真実の姿(実相)に、英知を集中させている。
寿量品(第十六章)にも「如来は如実に、三界の相を知見す」(法華経 p499)とあります。三界とは現実世界です。
現実世界(諸法)から決して離れない決心 —- これが仏の心なのです。
同時に、現実世界(諸法)の表面にとらわれず、そこに秘められた偉大なる真実の姿(実相)をとらえ、教え、開いていく —- これが仏法の智慧なのです。
「諸法実相」という言葉の中に、仏法の徹底した「現実主義」と、「現実を超えていく智慧」が込められているのです。

須田: よく分かりました。
この十如実相のうち、「相」は外に現れて見分けられる姿・形など、「性」は内にあって見えない性質、性分、可能性などです。天台は、如是性の究極は仏性だと言っています。「体」は相と性をあわせ持った主体です。この三如是は、諸法 —- 個々の生命の本体を三つの角度から見たものです。

斉藤: 一応、この三つで、個々の生命を統一的にとらえているので、空・仮・中の三諦や法・報・応の三身に当てはめられ、いろいろな法義が立てられていますね。

須田: 十如是のうち、「力」は、色心の潜在的な能力です。「作」は、その力が色心に現れた働きです。
また「因」は個々の諸法それ自身の中にある変化の原因、「縁」は変化をうながす内外の条件、間接的な原因。「果」は変化によって得られた直接的な結果で、「報」は結果によってもたらされる報いです。因・縁・果・報の四つで総じて“因果”ということができます。

斉藤: 妙楽は「十如を語らざれば因果備わらず」(摩訶止観輔行伝弘決)と、十如是の特性を因果に見ています。

名誉会長: 因果は、成仏の因果 —- 仏になれるか否か —- に関わるから大切なのです。
大聖人は十如是を「色心の因果」(御書 p239)と表現しておられる。
どの生命(諸法)も、それぞれの「色心の二法」に「因果の二法」が具わって、千変万化の変化を続けている。そういう実相を、仏はありのままに見たのです。

遠藤: 最後の「本末究竟等」ですが、これはひとつには、如是相を本とし如是報を末として、首尾一貫して等しいという意味です。
つまり、地獄界なら地獄界として、仏界なら仏界としての統一性を言います。

名誉会長: そういう実相を見るのが仏眼なのだね。
隠された可能性(性・力)や、変化しうる開放性(因・縁・果・報)をもちながら、しかも統一性をたもっている。相互に依存し、相互に開かれつつ、統一性をもって成り立っている —- それが諸法のありのままの姿(実相)なのです。詳しくは述べないが、縁起観や三諦論に通ずる見方です。