投稿者:まなこ   投稿日:2015年 6月21日(日)10時41分58秒     通報
遠藤: しかし、学会員が地涌の菩薩であると、言わせないようにしてきたのが宗門です。「地涌の菩薩」ではなく、せいぜい「地涌の菩薩の眷属」なのだと。

須田: 眷属というなら、私たちは日蓮大聖人の誉れの本眷属です。堕落した坊主の眷属などでは絶対にない。

斉藤: だいいち、「皆地涌の菩薩の出現に非ずんば唱へがたき題目なり」(御書 p1360)との大聖人の御明言を、彼らはどう拝すのでしょうか。

須田: 日寛上人も、大聖人と「不二」の境涯になるのが、大聖人の仏法の真髄であることを強調されています。
「我等、妙法の力用に依って即蓮祖大聖人と顕るるなり」(文段集 p676)
「我等この本尊を信受し、南無妙法蓮華経と唱え奉れば、我が身即ち一念三千の本尊、蓮祖聖人なり」(文段集 p548)と。

遠藤: その御精神とは正反対に、「不二」にさせまいとするのが日顕宗です。大聖人の弟子が大聖人と「不二」の道を進むことが、彼らには、よほど都合が悪いのでしょう。

須田: 「不二」たるべき師と弟子を、どうしても引き離したい。要は、そのすき間に、自分たちが入り込んで、弟子たちの上に君臨したいのです。
大聖人の凡夫即極の教え、それを受けた日寛上人の御教示を、真っ向から否定するものです。

斉藤:  「本仏」という言葉さえ、彼らにとっては、自分たちを権威化する手段となっています。
大聖人を、凡夫から隔絶した超絶の存在のように思わせておいたほうが、法主をはじめとして自分たちの権威も高まるという邪智です。

名誉会長: 大聖人を崇めているようで、実は大聖人の御心を殺しているのです。
最高の「人間尊敬の教え」を、最低の「人間蔑視の教え」に、すり替えてしまっている。民衆を蔑視する傲慢ゆえに、大聖人の説かれた「不二」の道を壊したいのです。
ドストエフスキーは洞察している。
—- 実は、傲慢な人間の多くは神を信じる。「人間を軽蔑している者」には、それが著しい。なぜなら彼らは、「人間に頭を下げたくない」から神を選ぶのである。「神の前に跪く」のであれば、自分の傲慢は傷つかず、何ら苦痛ではないからだ —- (『未成年』、要旨)
文豪の、非常に鋭い“心理学者”の一面をのぞかせている。

斉藤: この言葉の「神」を、彼らの言う「凡夫と隔絶した御本仏」と置き換えれば、その心理は、より明瞭ですね。

遠藤: 彼らが跪いているのは、実は大聖人の教えに対してではなく、自分自身の醜い欲望に対してなのですね。

名誉会長: 堕落した人間に惑わされることほど愚かなことはない。
要は、見抜けばいいのです。
「師弟不二」こそ法華経の魂であり、日蓮大聖人の仏法の真髄です。その一番大事なものを壊し、切り離そうとする。それが「魔=奪命者」の特徴です。
「不二の道」の否定は、十界互具の否定、人間の平等に対する冒涜にほかならない。この一点に、日顕宗の本質が顕れている。
日淳上人は、学会の信仰の基盤は「師弟」にあると、厳然と見抜いておられた。学会の第十九回総会(一九五八年十一月)のために用意された日淳上人の原稿には、こう記されている。
「大聖人は日蓮が法門は第三の法門と仰せられておりますが、誠に此の仰せを身を以て承けとられたのは会長先生(戸田先生)であります。大本尊より師弟の道は生じ、その法水は流れて学会の上に伝わりつつあると信ずるのであります」と。

須田: 重大な御言葉ですね。
「師弟の道」と「師弟不二の道」の違いについて、忘れられないのが、池田先生の小説『人間革命』です。戸田会長と山本伸一の「不二」の戦いについて第十巻には、こう描かれています。
「戸田は彼の膝下から多くの指導者の輩出のために心を砕いていたものの、時機はまだ熟していなかった。彼の弟子たちは、師弟の道は心得ていたが、広布実践のうえの師弟不二のなんたるかを悟るものはほとんど皆無といってよかった。不二とは合一ということである。
昭和三十一年の戦いに直面したとき、彼の弟子たちは戸田の指導を仰いだが、彼らの意図する世俗的な闘争方針を心に持しながら、戸田の根本方針を原理として聞き、結局、彼らの方針の参考としてしか理解しなかった。戸田の指針と彼らの方針とは、厳密にいって不同であったのである。師弟の道を歩むのはやさしく、師弟不二の道を貫くことの困難さがここにある。ただかろうじて、山本伸一だけが違っていた」
「その彼の作戦の根本は、戸田の指針とまったく同一であった。不二であった。彼には戸田の指導を理解しようなどという努力は、すでに不必要であった」
「彼は一念において、すでに戸田の一念と合一したところから出発していた」

斉藤: 「師弟不二の道」とは、師と同じ心、同じ祈りに立って戦っていこうとすることだと感じます。

名誉会長: 法華経の説く「十界互具」こそ、万人の境涯革命を可能にする根本原理です。この智慧を我が身で行い、万年の未来へ伝えていかねばならない。その黄金の軌道こそ「師弟不二の道」なのです。
広げて言えば、どんな事業も運動も、偉大なものは一代では完成しない。後継者が絶対に必要です。
マンデラ大統領に、私は言いました。
「『マンデラ』という偉材が、ただ一人いるだけでは、あなたの仕事は完結しません。一本の高い樹だけでは、ジャングルはできないように —- 」(一九九〇年十月)
今回の会見でも後継者についておうかがいし、大統領は心配ありませんと自信を示しておられた。
大聖人は「伝持の人無ければ猶木石の衣鉢を帯持せるが如し」(御書 p508)と仰せです。
法華経の涌出品(第十五章)で、民衆救済の真の後継者である地涌の菩薩が出現したとき、釈尊は、この菩薩たちとの久遠からの師弟不二を明かそうとして告げた。
「如来は今、師子奮迅の力を顕し宣べ示さん」(法華経 p484、趣意)と。
大聖人は、末法万年の衆生を救う御本尊を「日蓮がたましひをすみにそめながして・かきて候ぞ」(御書p1124)と残された。そして御本尊を認められる御一念を「師子奮迅之力」と仰せになられた。
全民衆のために、永遠の人類のために —- その魂こそ「師子奮迅の力」である。師から弟子への全力の教育であり、鍛錬です。
また「師子」の「師」は師匠、「子」は弟子とすれば、師弟一体となって、奮迅の力で、「人類の境涯を変える」戦いをするよう、法華経は呼びかけているのです。