投稿者:まなこ   投稿日:2015年 6月20日(土)20時57分11秒     通報
■ 一仏乗とは師弟不二の道( p193)

須田: 方便品でも、一仏乗はただ「菩薩」だけを教化する教えであることが強調されています。
ここで分かりにくいのは、一仏乗を信解した菩薩と、もとの三乗のうちの菩薩との関係です。両者は同じなのか異なっているのか。異なっているとすれば、どう違うのか。

遠藤: この問題は、中国仏教では、三車家・四車家の論争として知られています。譬喩品(第三章)では三車火宅の譬えによって開三顕一を説いています。その詳しい内容は省きますが、声聞乗が羊の車に、縁覚乗が鹿の車に、菩薩乗が牛の車に、そして一仏乗が大白牛車に譬えられています。
したがって、菩薩乗(牛車)と一仏乗(大白牛車)が同じだとする立場は、車が三つだけあることになりますから三車家、違うとする立場は、四つになるので四車家と呼はれました。天台大師は四車の立場です。

名誉会長: いろいろな論じ方ができると思うが、一次元の見方として、こう考えたらどうだろう。
一乗が顕される前の三乗の仏弟子たちは、一応、「師弟の道」を歩んでいた。しかし、開三顕一は「師弟不二の道」を歩むことを教えていると。

斉藤:「師弟」から「師弟不二」へ —- それは、どういうことでしょうか。

名誉会長: 「三乗」のなかの菩薩は「二乗不作仏」という差別を残した菩薩です。「十界各別」であり、ゆえに菩薩が衆生を救うこともできず、菩薩自身が仏になることもできない。
それに対し、仏の願いは一切衆生を仏にすることにある。
師弟の境涯の違いは致し方ないとしても、師と弟子の「心」が、「願い」が、「哲学」が、根本的に違っているのです。
一方、「開三顕一」された後の菩薩は“蘇生した声聞たち”も含め、すべての衆生が平等に成仏できるという「十界互具」の法理に立っている。
そして、この大哲学の上に、すべての人々を仏にしようという大闘争の軌道に入った。そこで初めて、仏が歩んでいるのと同じ道に入った。根本の一念において、師弟が目的を同じくする同志となり、「不二」の道を歩む先輩と後輩の関係になった。そのように進んでいくのが、真の師弟なのです。

斉藤: なるほど、そういう見方ができるのですね。

名誉会長: しかも、現実社会という“海”に飛び込み、民衆一人一人を幸福への“大船”に乗せていく —- この戦いにおいては、仏もまた菩薩なのです。大聖人は十界互具を説明されて、「仏も又因位に居して菩薩界に摂せられ妙覚ながら等覚なり」(御書 p401)と仰せです。
ともあれ、師の心は「如我等無異」です。方便品に「一切の衆をして 我が如く等しくして異ること無からしめんと欲しき」(法華経 p176)とある。すべての衆生に、仏と不二の境涯を得させようという慈悲です。
また「諸仏の本誓願は 我が所行の仏道 普く衆生をして 亦同じく此の道を得せしめんと欲す」(法華経 p183)と。
同じこの道を歩ませたい、不二の道を会得させたい —- これが仏の「本誓願」です。
もちろん、法華経以前の三乗も、仏を信じてついてきた。それなりに「師弟の道」を歩んできたでしょう。しかし、そこには自分は自分、仏は仏という断絶の心があった。師の心を知らなかった。その迷妄を破ったのが法華経です。
「開三顕一」とは、「師弟の道」から「師弟不二の道」へと、弟子の一念、弟子の生き方を、根底から変革させるものではないだろうか。

須田: よく分かりました。先ほど話に出ましたが、舎利弗は一仏乗を聞いて、自分が「真の仏子」であると確信しました。「不二」の意義は、この「仏子」という言葉にも込められているのではないでしょうか。

名誉会長: そうだね。戸田先生は言われていた。
「かじ屋の弟子であるから、かじ屋でしょう。魚屋の弟子だから魚屋でしょう。同じように仏様の弟子は仏様でしょう。うまくいっています」「(我々も)大聖人様の仰せ通り折伏しているのですから、大聖人様の弟子なのです」と。
また「我々は仏様の子供です」と、何度も強調されていた。
自覚しようとしまいと、「ライオンの子」は「ライオン」です。「仏の子」は「仏」です。他の何ものでもない。ライオンであるという事実、仏であるという事実に変わりはない。それを「自覚」すれば「不二」の道となる。

遠藤: 「仏子」とは、声聞とか縁覚とか菩薩とかの立て分けを超えた言葉ですね。具体的な振る舞いは、菩薩だと思います。
「仏子」という言葉には、弟子を「不二」の境涯に高めたいという師の慈愛、そして、どこまでも師と「不二」の心で進むのだという弟子の決意が込められているのではないでしょうか。

名誉会長: その通りだと思う。
仏にとっては、十界の衆生すべてが「吾が子」です。そのなかでも、妙法を受持した衆生こそが「真の仏子」と言えるでしょう。
宝塔品(第十一章)に「(未来の世において法華経を持つものは)是れ真の仏子」(法華経 p419)と説かれる通りです。

斉藤: 法華経が滅後のための経典であることを考えれば、「真の仏子」とは、具体的には「地涌の菩薩」を指すといってもよいのではないでしょうか。

名誉会長: そうです。
「子とは地涌の菩薩なり父とは釈尊なり」(御書 p803)と、大聖人は仰せになっている。師と同じ誓願、同じ責任感、すなわち師弟不二に立ち上がった弟子が「地涌の菩薩」です。そして、「日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか」(御書 p1360)と仰せです。この同意に意味がある。
日蓮大聖人の御誓願を我が誓願として、今まさに広宣流布へ進んでいる創価学会こそ、久遠の使命を担った「地涌の菩薩」の教団です。大聖人と一体の弟子の集まりなのです。