投稿者:まなこ   投稿日:2015年 6月20日(土)13時21分50秒     通報
遠藤: 法華経に説かれる「不軽菩薩」は、十界互具の生命観を「振る舞い」に示したものですね。不軽菩薩は軽蔑されても、迫害されても、上慢の四衆(慢心した出家・在家の男女)に向かって礼拝行を貫きました。

名誉会長: 詳しくは不軽品のところで語ることになると思うが、大聖人は「自他不二の礼拝」(御書 p769)と仰せです。
不軽菩薩が人々を礼拝すれば、人々の生命に具わる仏性がまた、不軽菩薩を礼拝するのであると。甚深の法門です。
英国の詩人ジョン・ダンは言っている。
「人は孤島にあらず。自身のみで完全なる者はなし。人はみな大陸をなす一部なり。大海原の一部なり。波きたりて土くれを洗いゆけば、洗われしだけ、ヨーロッパは小さくなれり。さながら岬の消えゆくごとく、さながら汝の友そして汝自身の領地の消えゆくごとく。一人の死も我を小さくせん。我は人類の一部なるゆえに。されば、誰がために(弔いの)鐘は鳴るやと問うなかれ。汝自身のために鳴るなり」(『ダンの祈り』)と。
「あなたも私も、人類という大陸の一部」 —- すべての人の幸不幸を我が幸不幸と観じて生きる“大陸大の境涯”を開きたい。
否“宇宙大の境涯”を開かせたいというのが、戸田先生が強調された「一仏乗」の目的であり、「開三顕一」の心ではないだろうか。そこまで人類の境涯を高めたいと。

須田: 目がさめるような思いがします。二乗作仏には、ここまで現代的な意義があったわけですね。

名誉会長: ただ、ここで論じたのは「迹門の十界互具」であって、「九界即仏界」「仏界即九界」の両側面のうち、「九界即仏界」の面だけです。真の十界互具は、本門の寿量品(第十六章)で、仏の常住が明かされて初めて完成する。
これはまた、別の機会に語ることにしよう。

須田: 釈尊は「大乗平等の法」(法華経 p175、方便品)と呼んでいますが、こうした、「最高の法」「最高の生き方」を知った二乗の喜びは、どれほどだったでしょうか。

遠藤: 経文では、舎利弗は歓喜のあまり思わず踊りあがって、釈尊に向かって合掌したと説かれています。
「踊躍歓喜。即起合掌」(躍りあがって歓喜し、起ちあがって合掌した)」(法華経 p193、譬喩品=第三章)と。

斉藤: “智慧第一”の大学者が、躍りあがるぐらいですから(笑い)、よほどうれしかったのでしょう。法華経によって蘇った「声聞」の姿ですね。

名誉会長: 根底から一念が変わったのです。
そして舎利弗は、一仏乗を納得してこう告白しています。
「今、仏から未曾有の法を聞いて、すべての疑いや悔いがなくなり、心身ともに安穏になりました。今日はじめて知りました。自分は真の『仏子』です。仏の口から生まれ、仏の教化から生まれたのです」(法華経 p194、趣意)と。
この「仏子」という言葉は、大乗では菩薩を意味します。舎利弗は一仏乗を信解して、声聞から菩薩に生まれ変わったのです。

遠藤: このことは、*「三車火宅の譬え」を聞いて開三顕一を会得した迦葉、目連等の四大声聞の場合も同じです。
彼等は、信解品(第四章)で「我等は今、真の声聞になった。仏道の声を一切の人々に聞かせていこう」(法華経 p275)と述べています。すなわち“教えの声を聞く声聞”から、”教えの声を聞かせる真の声聞”へと生まれ変わった。

* 長者の家が火事になり、中で遊んでいた子どもを長者が門外にある三車(羊車・鹿車・牛車)を与えると称して助け出し、実際には大百牛車を与えた。譬喩品第三に説かれている。

名誉会長: そう。開会されれば、声聞は声聞の姿のままで、「如来の使い」としての本来の使命を果たせるようになるのです。

斉藤: 声聞たちは、更にこう変わりました。
「世尊は大恩をくださった。希有なることをもって、憐れみ、教化して、私たちに利益を与えてくださった。無量億劫という長い時間をかけても、だれがその恩に報いることができるであろうか。できるはずがない」(法華経 p276、信解品、趣意)
「不知恩」とされた二乗が、仏の大恩を賛嘆している。これは一八〇度の転換です。

須田: そして、釈尊が言います。
「汝たちの修行するところは、菩薩の道である。だんだんと学を修めていって、ことごとく必ず仏となるべきである」(法華経 p293、薬草喩品=第五章)
「多くの菩薩たちが声聞・縁覚となって、多くの衆生を教化するのである。彼らは、内に菩薩の行を秘め、外には自分は声聞であるという姿を見せている。生死の輪廻を厭うなど、いかにも声聞らしくしているけれども、実は、自ら仏の国土を浄めているのである」(法華経 p360、五百弟子受記品=第八草、趣意)と。

名誉会長: あなたがたは自分を声聞だと思っているけれども、実は「菩薩」なのですよ。あえて声聞の役を演じながら、人々を仏道に向かわせているのですよ —- こう教えているのだね。