投稿者:まなこ   投稿日:2015年 6月20日(土)06時41分47秒     通報
須田: 十界とは、地獄界から仏界までの十種類の生命の境涯ですが、十界互具とは、十界のうち、すべての一界に、そのほかの九界が具わっていることです。御書には「十界互具と申す事は十界の内に一界に余の九界を具し —- 」(御書 p400)とあります。

斉藤: 十界互具のポイントは「九界即仏界」「仏界即九界」にあります。そのうち迹門では「九界即仏界」が表になっています。二乗も含む九界に、仏界が具わっていることを明かします。

名誉会長: 端的に言えば、仏界とはどこにあるか。ほかでもない、二乗界にある。逆に、二乗界とはどこにあるか。ほかでもない、菩薩界にある。また仏界にもある。
生命観の大転換です。

斉藤: 「十界互具」の生命観に立てば、菩薩が「二乗は嫌だ」と言ってもだめなんですね。「それは、お前のなかにも、あるじゃないか」となる(笑い)。

遠藤: 二乗が成仏できないとすれば、菩薩に具わる二乗界が成仏しないことになる。生命は、そこだけ切って捨てるわけにはいかないので(笑い)、菩薩そのものが成仏できないことになります。

須田: 大聖人が「菩薩に二乗を具す二乗成仏せずんば菩薩も成仏す可からざるなり」(御書 p421)とおっしゃっているのは、そのことですね。

名誉会長: そうです。この原理は、十界の各界すべてについて同じです。
「「二乗界・仏にならずば余界の中の二乗界も仏になるべからず又余界の中の二乗界.仏にならずば余界の八界・仏になるべからず」(御書 p522)と仰せの通りです。
「二乗不作仏」ならば、仏ですら、仏ではありえなくなる。仏の中の二乗界が成仏しないからです。
法華経以前の経典には、十界それぞれの因果が別々に説かれている。しかし、そこで説かれる成仏には実体はなく、“影”のようなものです。
法華経には、その十界の因果の「互具」が説かれている。ゆえに法華経によって初めて、十界すべての衆生の成仏が可能となるのです。「十界互具」が説かれるか否か。ひとえに、ここにかかっている。

遠藤: 「法華経とは別の事無し十界の因果は爾前の経に明す今は十界の因果互具をおきてたる計りなり」(御書p401) —- 法華経とはほかの何を説いているのでもない。十界の因果は爾前の経に明かしているが、今(今経=法華経)は十界の因果の互具こそを定めている —- と、大聖人が明言されている通りですね。

斉藤: そうしますと、成仏できないと聞いた二乗の嘆きは、菩薩にとっても“他人ごと”ではなかったと言えますね。

名誉会長: そこなのです、大事なのは。
大聖人は「二乗を永不成仏と説き給ふは二乗一人計りなげくべきにあらざりけり我等も同じなげきにてありけりと心うるなり」(御書 p522)と仰せです。
そして「人の不成仏は我が不成仏、人の成仏は我が成仏・凡夫の往生は我が往生」(御書 p401)という考え方を示されている。
十界互具になる前は、他の衆生のことは、あくまで“他人ごと”であった。それが十界互具になって、“人の成仏は自分の成仏”“人の不成仏は自分の不成仏”と受け止めていく生き方に転換している。これは生命観、世界観の大変革です。
「他人だけが不幸」はありえない。「自分だけが幸福」もありえない。他者のなかに自分を見、自分のなかに他者との一体性を感じていく —- 「生き方」の根底からの革命です。
すなわち、人を差別することは、自分の生命を差別することになる。人を傷つければ、自分の生命が傷つく。人を尊敬することは、自分の生命を高めることになる。

斉藤: 「十界互具」の生命観に立てば、人間は差別を超えられる、平等になれるということですね。

名誉会長: その通りです。「権教は不平等の経なり、法華経は平等の経なり」(御書 p816)と大聖人は仰せです。法華経は、単なるスローガンとしての平等ではなく、生命の法理のうえから、そして「生き方」の根源から、自他共の幸福への道を教える経典なのです。
そして大聖人は、末法は「南無妙法蓮華経の大乗平等法の広宣流布の時なり」(御書 p816)と教えてくださっている。