投稿者:まなこ   投稿日:2015年 6月19日(金)18時36分49秒     通報
■ 二乗作仏の意義 —- 十界互具

遠藤: 「二乗作仏」については、私も教学試験のたびに教わりました。先輩たちが必ず言うことには「二乗根性にはなるな」と(笑い)。二乗というと、頭はよいけれども、それを鼻にかけていて、利己的で、人を救おうという慈悲がなくて —- という悪いイメージが強いのですが。

名誉会長: それだけでは、二乗がかわいそうだね(笑い)。たしかに、そういう面もあるだろうが、多くの場合、そういう人は「エセ二乗」であって、二乗を二乗たらしめている激烈なまでの「求道心」をもっていない。「真理への渇仰」がない。
戸田先生は、皆に分かりやすいよう意味を広げて、現代において二乗とは「知識人」にあたり、本来ならば「世の宝」となる人々であるとされています。
例えば、ノーベル賞をいくつももらうような大学者、大哲学者をイメージすればよいかもしれない。しかも名聞名利を捨て、私利私欲を滅し尽くそうと努力している。いわゆる大人格者です。その意味では、二乗など、なろうと思っても、そう簡単になれるものではない(笑い)。

須田: それほどの仏弟子たちが、どうして永久に成仏できないとされたのか。考えてみれば不思議ですね。

遠藤: 法華経が説かれるまでは、その嫌われ方も辛辣です。
“焼いた種のように絶対、仏性の芽は出ない”とか“地獄に堕ちるほうが、まだまし”とか(笑い)。

斉藤: 二乗の修行の理想は「灰身滅智」です。煩悩のよりどころとなる肉体も、苦しみを感ずる心の働きも、すべて滅した状態を目指します。「身も心もうせ虚空の如く成るべし」(御書 p393)と。それでは、仏になるべき自分すら残りません。

須田: また、二乗とよく比較されるのが、三乗のなかの菩薩です。菩薩には「利他」の心があるけれども、二乗には「自利」しかない。だから二乗は成仏できないのだと。

名誉会長: 六道(地獄界からから天界まで)の世界を嫌うのが二乗ですから、そこから出て“虚空の如く”になったら、もう現実世界には戻ってこない。戻ってこず、六道の衆生を救おうとしない。実は一切衆生に恩があることを忘れてしまう。
「永く六道に還らんと思わず故に化導の心無し」(御書 p434)。また「解脱の坑に堕して自ら利し及以び他を利すること能わず」(御書 p191)です。救うべき人々を見捨ててしまっては、もはや仏法ではない。また、それでは自分も救われない。ゆえに「一念も二乗の心を起すは十悪五逆に過ぎたり」(御書 p435)とされたのです

須田: そうしますと“不知恩な二乗なんか放っておいて(笑い)、菩薩になればいいじゃないか”となるのが普通だと思うのですが。

名誉会長: それが三乗のうちの菩薩乗だね。しかし、“二乗は成仏できない。菩薩なら成仏できる” —- 実はここには、重大な矛盾がある。
ここのところを掘り下げれば、法華経が説かれなければならなかた理由も分かってくるのです。
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方便品から
「舎利弗当に知るべし 我本誓願を立てて 一切の衆をして 我が如く等しくして異ること無からしめんと欲しき 我が昔の所願の如き 今者は已に満足しぬ 一切衆生を化して 皆仏道に入らしむ」 (法華経 p176)

舎利弗よ、次のことを知りなさい。私は、過去に誓願を立てて、一切の人々を、自分と等しくして異ならないようにしたいと思った。この私の昔からの願いは、今は、すでに満たされた。すべての衆生を導いて、みな仏道に入らせるのである。
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仮に二乗を放っておいて、菩薩になったとしよう。しかしそれでは、二乗が六道を救わないのと同じく無慈悲なのです。
菩薩は「四弘誓願」といって、成仏を目指して四つの誓いをした。その一つ、「衆生無辺誓願度」とは、すべての衆生を救わんとすることです。二乗を不作仏のまま見捨てるなら、菩薩は、この誓いを捨てたことになる。誓いを捨てれば成仏はできない。
大聖人は「所詮は二乗界の作仏を許さずんば菩薩界の作仏も許さざるか衆生無辺誓願度の願の闕くるが故なり」(御書 p589)と仰せです。
爾前経では“菩薩は仏になれる。二乗はなれない。このことを菩薩は悦び、声聞は嘆き、人界・天界の衆生等は思いもかけない”(御書 p401)等というが、ここに大きな錯覚がある。菩薩も、自分だけは大丈夫だと笑ってはいられないのです。

遠藤: 道理ですね。

名誉会長: なぜ、こういう錯覚と矛盾に陥ってしまうのか。結論から言えば、法華経以外は「十界互具」ではないからです。