投稿者:まなこ   投稿日:2015年 6月19日(金)13時23分56秒     通報
§方便品§(2)
■ 開三顕一 —- 「師弟の道」から「師弟不二の道」へ

斉藤: 先日、池田先生がマンデラ大統領(南アフリカ共和国)と再会された記事(聖教新聞一九九五年七月六日付)を読みました。
会談の内容も素晴らしく、何より感動したのは、前回の出会い(九〇年)以来、池田先生が、アパルトヘイト(人種隔離)反対を訴える“人権写真展”をはじめ、文化・教育による多角的な支援の提案を実現してこられたという“事実”です。

名誉会長: マンデラ大統領は「正義の巌窟王」であり、現代の英雄です。その人権闘争を支え、受け継ぐ南アフリカの人々もまた偉大です。
世界への精神的影響も大きい。
大統領のような闘士が一人いれば、皆が学び、仰ぎ、全人類の境涯が高められる。大統領の戦いを支持し、広く知らしめていくことが、人類全体の人格を高めることに通じるのです。
世界には、血涙の苦闘のさなかの人々が、数限りなくいる。この方々にとって、大統領の行動が、勝利が、どれほどの希望の光明と輝いていることか。

遠藤: 日本にいると、なかなか分からないですね。“人権後進国”ですから。

名誉会長: そう。境涯を変えなければいけない。現代は文明社会全体が科学技術に頼り、経済競争に目を奪われ、自然を破壊し、殺戮兵器をつくり、不信と欲望をエスカレートさせている。
まるで精神的な“幼児”が、危険な“火器”を弄んでいるようなものだ。人間を取り巻くものは変わったのに、人間だけが変わっていない。
法華経の意義は、そうした未熟な人類を、賢き人類へと変革させていくことにある。「仏界」という、一人一人の内にある最高の境涯を開発することにある。
全人類の境涯を高めたい —- この一点に、戸田先生の願いと悩みもあった。
“我ら学会員こそは、「地涌の菩薩」である。「如来の使い」「日蓮大聖人の使い」と確信すべきである。この確信に立つとき、私どもは「如来の事」を行わなくてはならない。それは何か。それは一切の人をして仏の境涯におくことである。すなわち、全人類の人格を最高の価値にまで引き上げることである”と。
全人類を仏に —- 。戸田先生は、別の折にも言われている。法華経の「開三顕一」で明かされる「一仏乗」こそ、“人類が志求すべき最高の境涯”を教えていると。
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方便品から
「舎利弗、如来は但一仏乗を以っての故に、衆生の為に法を説きたもう。余乗の若しは二、若しは三有ること無し」 (法華経 p167)

舎利弗よ。如来は、ただ一仏乗によって、衆生のために教えを説かれるのである。如来の教えは、この一仏乗のほかに、二乗も、三乗もない。
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ここでは、この戸田先生の達観を指標として、方便品の「開三顕一」の法門を探究してみよう。
■ 法開会と人開会

斉藤: はい。まず基本的なことを確認しておきたいと思います。
「開三顕一」とは、方便品(第二章)に始まる法華経迹門の中心的な説法の内容を要約した言葉です。「三乗を開いて一乗を顕す」という意味です。
「三乗」とは、声聞乗・縁覚乗・菩薩乗の三つをいいます。それぞれ、声聞のための教え、縁覚のための教え、菩薩のための教えという意味です。「乗」と言われているのは、教えを乗り物に譬えています。仏の教えは、人を乗せて、より高い境涯へと運ぶものだからです。
また「一乗」とは“唯一の教え”という意味です。仏の唯一の教えは“仏に成る”ための教えなので「仏乗」とも「一仏乗」とも言います。これには、仏自身が乗ってきた乗り物という意味もあると考えられます。
仏自身が歩んできた道を教え、仏自身が乗ってきた乗り物を与えるのが一乗です。

遠藤: 方便品では、いわゆる「開示悟入の四仏知見」として一乗を明かしています。すなわち、衆生に仏知見を開かせ、示し、悟らせ、仏知見の道に入らせるのが、仏の唯一の教えです。またこれが、仏がこの世に出現した唯一の目的であるという意味で「一大事因縁」とも言われています。<本文 p 141の経文を参照>
仏知見とは、仏の智慧であり、悟りです。一切の究極を知る最高の智慧なので、方便品では「一切種智」とも言われています。この智慧を開いて得る最高の悟りを「無上菩提(阿耨多羅三藐三菩提)」と言います。
仏知見こそ、一乗が教えるものなのです。

須田: ところが、この仏知見は簡単には分からない。言葉を超え、思考を超えているからです。人間だれしも、種々の異なった執着を持っている。ゆえに、いきなり随自意で仏の真意(仏知見を開示悟入すること)を説いても理解できないし、拒否したり不信を起こして悪道に堕ちてしまうかもしれない。そこで随他意として、衆生の機根に合わせた教えが必要になってくる。
ここから仏の「方便の力」によって、衆生の生命状態に応じて説かれた教えが三乗です。それは、仏知見を教えるものではない。仏の真の目的ではない。しかし、目的である一乗を教えるためには、その衆生に対して不可欠の手段になるものです。

名誉会長: 方便品では、三乗の教えを仏が説いた“真意”は、一乗にあることを徹底して説いている。これが開三顛一です。仏の教えは一乗だけであり、二乗も三乗もないと強く言っています。
「如来は但一仏乗を以っての故に、衆生の為に法を説きたもう。余乗の若しは二、若しは三有ること無し」(法華経p167)とある。これは「顕一」(一乗を顕す)の面です。
また「諸仏、方便力を以って、一仏乗に於いて分別して三と説きたもう」(法華経 p170)とあるのは、「開三」(三乗を開く)の面を言った経文です。三乗は、一仏乗を仏の方便の力で説き分けたものであると。
仏の真意は一仏乗にしかないことを、方便品では繰り返し強調するのです。
このように、「三乗は方便」「一乗こそ真実」と明かして、三乗を一仏乗のもとに統一することを「開会」と言う。
この開会には人と法の二面がある。

斉藤: はい「法開会」は、今述べられたように、三乗を一乗に統一することです。統一された後は、三乗の教えも一乗のなかに正しく位置づけられ、それぞれに意義があることになります。部分観として生かされるのです。
これに対して「人開会」とは、一乗によって教化される衆生はすべて菩薩であると明かすことです。
方便品に「諸仏如来は但菩薩を教化したもう」(法華経 p167)とあり、また「但一乗の道を以って諸の菩薩を教化して声聞の弟子無し」(法華経 p190)等とあります。
これは一仏乗という乗り物を示して、一切衆生、特に声聞・縁覚という二乗に、これに乗りなさいと呼びかける。それによって二乗も、菩薩へと統一されます。菩薩とは「成仏を目指す人」であり、より深くは「成仏が確定した人」です。その意味で摩訶薩(偉大な人)とも言われます。

名誉会長: 要するに、仏の教えは「一仏乗しかない」と、はっきり言うことは、一切衆生が菩薩であると示すことになる。二乗も菩薩であり、仏に成れるのです。
人開会は、一乗の教えがすべての衆生を成仏させることを強調するものです。その要が法華経の「二乗作仏」です。
この法と人の二面から見ていけば、開三顕一が理解しやすいのではないだろうか。特にここでは、人開会つまり二乗作仏を中心に考察していきたいと思うが、どうだろうか。

斉藤: 賛成です。二乗作仏こそは法華経の独自の法門ですから