投稿者:まなこ   投稿日:2015年 6月19日(金)06時48分13秒     通報
■ 如我等無異 人材育成の心( p169)

須田: 学会活動も、自分の立場で、自分なりの「自己教育」「人間教育」に取り組んでいくことが大事ですね。

名誉会長: そこなのです。弘教はもちろん、人材育成も、すべて法華経の精神にかなった実践です。また他の文化的・社会的活動も、人材を育て、仏縁を広げる方向へ向いてこそ、深い意味がある。方便品に「如我等無異(我が如く等しくして異ること無からしめん)」(法華経 p176)とあります。
一切衆生を、自分と同じ境涯まで高めたいという仏の誓願です。ここにこそ、人材育成の精神、「人間教育」の精神の根本があると思う。それが「師弟」の心です。
もちろん、自分も更に成長していく立場ですから、“自分と同じように”というより、“この人を自分以上の人材に育てよう”という決意が「如我等無異」に通じるでしょう。

斉藤: 人を育てるどころか、“自分以上に偉い者は認めない”というのが日顕宗ですね。法華経と正反対です(笑い)。誤った宗教は、皆そうです。

名誉会長: 後輩のために、どれだけ祈ったか、苦労したか。その慈愛と真剣さに「人間性」の真髄がある。
学会は「人間性の組織」です。ゆえに権威でも号令でもない。「人間性」に触れる感動とともに前進していくのです。
ロシアの民衆詩人プーシキンの詩才を育てたのも、農奴の一老婦人の人間性でした。詩人は彼女を「おかあさん」と呼び、心から信頼した。世界の人々の心を揺さぶってやまない彼の作品は、「おかあさん」から聞いた、民衆の言葉による民衆の物語が源になっている。
また“三重苦”のヘレン・ケラーを、ハーバード大学にまで行かせたのは、サリバン先生という女性です。彼女は自身の才能や可能性の一切を犠牲にしてまで、生涯ヘレンの目となり、耳となって働いた。
サリバン女史の晩年、ある大学から二人に名誉博士号が贈られることになった。しかし女史は断った。「愛する教え子のヘレンが名誉をうけただけで、わたくしはこの上もなくまんぞくです」(村岡花子著『ヘレン・ケラー』、偕成社)と。
翌年、女史にも称号が贈られるが、その四年後、女史は亡くなる。そのとき、ヘレンは堅く心に誓ったという。
「先生は、自分のような者のために、その一生を捧げきって死んで行かれた。それこそ完全な奉仕の生涯である。残されたわたしこそ、その連続でなければならない」(ヘレン・ケラー著、岩橋武夫訳『わたしの生涯』、角川文庫の解説)。そして全世界を舞台に、彼女は、目の不自由な人たちへの救援運動を展開していったのです。
こうした、地道な一人の婦人。生涯、表舞台に出ることのなかった一教師。「人間教育」の勇者とは、こういう人たちのことではないだろうか。
その意味で、妙法を胸に日夜、人材育成に奮闘している学会の同志が、どれほど尊く、どれほど偉大な存在か。
方便品に「是の法は示すべからず 言辞の相寂滅せり」(法華経 p156) —- この法は(言葉で)示すことができない。言葉の表現は滅し尽きてしまっている(この法を示すのに遠く及ばない) —- とある。
妙法の偉大さが、言葉では表現できないと同じように、妙法に生きる人生の偉大さも、言葉では言い表せないのです。

斉藤: “人を育てる”ということについて、以前、先生が語ってくださった魯迅の言葉が忘れられません。
「生きて行く途中で、血の一滴一滴をたらして、他の人を育てるのは、自分が痩せ衰えるのが自覚されても、楽しいことである」(石一歌著、金子二郎・大原信一訳『魯迅の生涯』、東方書店)と。

名誉会長: 今、私も全く同じ気持ちで、青年を育てている。諸君も、そういう人生を歩んでほしい。それが法華経を信ずる人の生き方であり、「師弟不二」です。
そして、師と弟子が一体となって、人類を潤す人間性触発の教育運動を繰り広げていく —- その闊達な社会貢献そのものが、一つの次元から言えば、仏界即九界、九界即仏界であり、ダイナミックな「秘妙方便」の行動になっているのです。