投稿者:まなこ   投稿日:2015年 6月18日(木)21時07分46秒     通報
須田: かつて池田先生が、青年に対してこう語られたことを思い出します。
「真の宗教性と、真の教育の精神とは、伸び伸びとした『人間全体の解放』という理想において、実は表裏一体なのである」と(一九九〇年十一月、創価教育同窓の集い)。

斉藤: 真の教育の心と法華経の精神とは、表裏一体であるということですね。
牧口先生は「法華経と創価教育」と題して、こう述べられています。
「要するに創価教育学の思想体系の根底が、法華経の肝心にあると断言し得るに至った事は余の無上幸栄とする所で、従って日本のみならず世界に向ってその法によらざれば真の教育改良は不可能であると断言して憚らぬと確信するに至ったのである」(『創価教育学体系梗概』結語)

名誉会長: 牧口先生は、ペスタロッチなどの先駆者たちが、繰り返し繰り返し訴えてきた「人間教育」の理想を、何とか根付かせたいと願われた。その「人間を幸福にする教育」の探究の結論として到達したのが、法華経だったのです。
例えばペスタロッチの言葉には、こうあります。
「人類に純粋な幸福を与える力というものはすべて技巧や偶然のたまものではない。それらはすべての人間の内に、人間のさまざまな本性といっしょにひそんでいるのである。それを引きだして育てることこそ、人類共通の願いである」
(梅根悟訳『隠者の夕暮』、世界教育学選集35所収、明治図書出版)
この「人類共通の願い」を追求した果てに「教育革命」を主張され、その教育革命の実現には、法華経による「宗教革命」以外にないとされたのが牧口先生です。
この「人類共通の願い」である教育の精神について、もう少し深く見ておきたい。
ここに、コロンビア大学のサーマン博士(宗教学部長)のインタビュー記事があるので、冒頭のところを少し、読んでくれますか。

斉藤: はい。アメリカSGIのボストン二十一世紀センターの機関紙からですね。
質問 —- 「社会における教育の役割について、教授はどのような考えをもっておられますか。また、この点につき、教授の考えに影響を与えたものは何ですか」。
こう答えておられます。
「私は、むしろこの質問は『教育における社会の役割は何か』であるべきだと思います。なぜなら、教育が、人間生命の目的であると私は見ているからです —- 」

名誉会長: ありがとう。まだ答えは続くけれども、私は、この一言に感動したのです
博士は、質問のしかたが違うと言われている。「社会における教育の役割は何か」ではなく「教育における社会の役割は何か」と問うべきだと。ここには、博士の透徹した人間観がにじみ出ている。
つまり「教育は、社会の一部分ではない。社会から派生したものでもない。教育こそが、最初から人間とともにあり、人間の最も根元的な営みである」という見方です。
「人間」とは「教育」を離れてありえない存在なのだと。だからこそ「師弟」が、根本の大事となるのです。

須田: この場合の教育は、機構や制度としての教育より、もっと深く、広い次元ですね。

名誉会長: そう。博士は「教育が、人間生命の目的である」と述べられている。言い換えれば —- 人間は何のために生まれたのか。何のために生きるのか。それは「教育によって、生命の可能性を極限まで開くため」である、ということでしょう。
その究極が(仏知見の)開示悟入です。

斉藤: 博士は続いて、こうも語られています。
「私のこのような考えに影響を及ぼしているのは、仏陀の教えです。私の認識では、仏教は、最も真実の意味において教育的な教えです」
「仏教は本来、宗教伝道の運動ではありません。むしろ宗教的な側面をもった教育運動です」と。

名誉会長: 鋭い洞察だと思う。
人間教育と仏法は表裏一体なのです。ゆえに、牧口先生は教育から出発して法華経に至り、私は法華経を根底に、教育・文化運動を繰り広げているのです。
「仏教は教育運動」ということを、「方便」との関連で言えば、こうなるだろうか。
すなわち、自らの仏性を開くという「自己教育」を根本にして、同時に、さまざまな智慧を湧かせ、さまざまな方便(方法)を使って、人々の仏性をも開いていく運動であると。
この、自他ともの「人間開発」「人間教育」にこそ、人間としての最高の軌道があるのではないだろうか。

遠藤: そうしますと、成道した釈尊が逡巡の末、苦悩に沈む人々に正法を説こうと立ち上がった瞬間、いわば「方便」の出発点であるあの瞬間に、人間本来の生き方が凝縮されているといえるのではないでしょうか。

名誉会長: そうだろう。釈尊の成道後の生涯はそうした瞬間の連続だったと思う。
「方便」は、人を救わんとする慈悲です。智慧です。行動です。「方便」という言葉には、一切の固定化に陥らず、常に、どう、より深く、より広く、人々を救っていくかという、ぎりぎりの挑戦の心が込められているのです。